その69 赤穂義士が実践し、吉田松陰に受け継がれた山鹿兵法

山鹿素行の思想の精髄は、日本学であると共に、武士の役割としての「治国平天下の道」を説く武士道政治哲学でした。まさに武士の生き様を教える、江戸時代の帝王学だったのです。

治国平天下に関する山鹿素行の教えをご紹介します。佐佐木杜太郎著『現代人の山鹿兵法』久保書店所収の文を元に、林が現代語訳しています。

「武士の仕事を兵法と言う。兵法によって身を修め、心を正し、国を治め、天下を平和にすることが出来ないならば、兵法を用いる意味は無い。」

通常、戦法や陣構え、築城法などを説いている兵法は、勝つための技術論と思われがちです。山鹿素行によれば、それは狭義の兵法であり、本当の兵法は治国平天下の道にあるのです。

「孔子、老子、孟子、その他多くの聖人賢者は、それぞれ兵法の達人であった。我が国も、聖徳太子をはじめ、今に至る歴史に登場した人物は、いずれも兵法の達人である。」

思想家も政治改革者も、自己を確立し、世の中の役に立っているならば、全て兵法の達人であるとのことです。

こうして、単なる技術的兵法に終わることなく、武士の心構えと、天下国家を担う使命を明らかにした思想家が山鹿素行だったのです。日本兵法を確立し、武士道哲学を大成させたのが素行であると言われる所以(ゆえん)です。

赤穂の四十七士による義挙にも、大きく素行の指導が及んでいます。討ち入りは、四十七士を率いた筆頭家老の大石内蔵助をはじめ、山鹿素行の教えを汲んでいる武士たちによって為されました。義士たちには、赤穂藩主の浅野内匠頭だけが一方的に切腹となったことへの耐え難い無念があったのです。

それを晴らし、藩の大義を天下に示すため、内蔵助はまずお家再興を図ります。それと合わせて、吉良上野介への処罰を求めます。しかし、それらの望みは敢え無く消え去ります。

残された道は、怨敵吉良を討つことのみとなりました。決行する以上、成功させねばなりません。そのための計画と情報収集、武器調達、戦法や編成の考案など、討ち入りに関する諸準備が用意周到に進められました。佐佐木杜太郎先生に由れば、それらは全て山鹿兵法に則って行われたのだそうです。

赤穂事件に対する義士討ち入りは、見事に成功しました。四十七士が本懐を遂げたことに対して、日本中から称賛の声が集まります。そして、その成功が山鹿素行の教えに由ったことが知れると、藩校の教科に採り入れる藩が現れました。

長州藩もその一つで、山鹿兵学師範の役割を担ったのが吉田家です。その吉田家に養子に入ったのが、あの松下村塾を主宰した吉田松陰でした。松陰の思想は、弟子の高杉晋作らに受け継がれますが、その大本は山鹿素行の教えにあったことが分かります。

ともかく、修身や正心という個人的な教訓と、治国平天下という政治的な使命を繋いだところに、山鹿素行の思想の素晴らしさがありました。素行は、まさに武士道政治哲学者であり、東洋を綜合する経世思想家であったというわけです。(続く)