その72 大高慢は、目立ちたがり屋や生意気屋とは全然違う

山本常朝が僧侶の姿をしているのは、仕えた主君が亡くなり、その冥福を祈るためでした。本当は後を追って腹を切りたかったのですが、既に幕政は武断政治から文治政治へ転換しており、家臣を失うことになる殉死は禁止されていました。それで、山本は出家の道を選んだのでした。

そもそも出家した修行僧が目指すのは悟りです。悟りとは目覚めた人(ブッダ)になることで、大宇宙と自分は一体であるという自覚がその基本となります。それが成仏の意味なのですが、山本は成仏なんて一度も願ったことがないと言い切ります。出家している私が言うのも何だが、僧侶が目指す成仏などは始めから眼中に無いと。

仏教の悟りの世界に、藩や主君と家臣という上下関係は必要ありません。それらの事柄は、大宇宙から観れば、単なる俗世の人間関係に過ぎないからです。

山本の願いは、宗教的な境地に至ることなどではなく、どこまでも鍋島藩士としての立ち位置から起こるものでした。七回生まれ変わる度に必ず鍋島侍に生まれて来て、我が藩を治めていく覚悟が胆(きも)に染み通っているまでだと。

その生き様に欲しいのは、見せかけの気力でもなければ、格好を付けるための才能でもありません。要は、我が藩を一人で担おうという志と、自分一人で我が藩を動かそうという気概です。山本は、それを大高慢と呼びました。大高慢とならなければ武士として役に立たないし、修行も物にならないと断言したのです。

この、鍋島侍であることに一切の迷いが無いというところにこそ、『葉隠』の教えの真髄があります。我々は様々な条件に左右され、ギブ&テイクの人生を送っているのが日常です。

希望する条件を満たしてくれて、自分にとって得になるなら、もうしばらくその組織で頑張る。だが、思い通りにならなくなって面白味が無くなり、損にしかならないと感じたら、たちまち文句を言って逃げ出す。そういう選択は、誰にでも身に覚えのあることでしょう。

そうではなく、天命として受けた立場や、魂から身を投じた組織であるならば決して離れない。真の同志は、何があっても見捨てない。それが、葉隠武士道の覚悟なのです。

そして、この覚悟があって初めて「自分一人で鍋島藩を担う」という大高慢が成り立つのです。大高慢は、単なる目立ちたがり屋や、成功を焦っているだけの生意気屋とは全然違うというわけです。(続く)