その76 威厳の源~日々本氣を貫き、狂氣を維持せよ!

「武士道とは死ぬことだ」。この「死ぬ」という言葉には、拘(こだわ)りや囚(とら)われ、しがらみの削ぎ落とし、あるいは名利への迷いから離れるための「私心の死」という意味もあるでしょう。この身にこびり付いた様々な世間的付き合いが手枷足枷となり、イザというときに腰抜けとなってしまうことのないよう、日々本氣を貫き、狂氣を維持せよというのが『葉隠』の教えなのです。

多忙となる中年期以降ほど、この削ぎ落としが必要になります。何かと人から頼りにされるのは栄誉なことですが、一番大事な天命を忘れたままですと、あれこれ引き回されている内に人生を終えるということにもなりかねません。

そこでこの際、我が天命から遠い事はやらない、自分がやらなくてもいい事は受けない、惰性でやっているだけの事はもう終わりにする、といった潔さが求められてきます。それら諸事から身を切り離すことの中にも、「私心の死」が含まれているのではないでしょうか。

本氣や狂氣などというものは、平凡な毎日の中で維持するしかありません。だから本当は、実に地味で地道な精神なのです。如何にして氣迫を保つかについて、『葉隠』は、さらに次のように説いています(意訳:林)。

「ちょっと見た感じそのままに、その人らしい威厳が現れている。普段から心掛けているところに威厳があり、物静かなところに威厳があり、寡黙なところに威厳があり、丁寧な礼儀に威厳があり、どっしりした立ち居振る舞いに威厳があり、奥歯をぐっと噛み締め眼差しの鋭いところに威厳が備わるものだ。これらは皆、内に養われている精神が外に現れ出た姿なり。要するに氣を抜かず、本氣で生きているところに威厳の源があるのだ。」

威厳は、偉そうな空威張りや、見せかけの高圧的な態度とはわけが違います。身に付いた覚悟と本氣が源になることによって、奥深いところからオーラが発せられたり、身中から人間的魅力が滲(にじ)み出てきたりするのが真の威厳です。

そうなることによって、行儀良く物静かにしているのに、端(はた)から見れば明らかな存在感がある。何気なくぼんやりしているのに、どこから見ても侵し難い雰囲気を感じる、というのが武士の持っていた威厳なのです。

それとは反対に、力んで威張るほど底の浅さが目に付き、ボケッとしているときはアホ顔に見えてしまう、などというのは、ただ「意」に欠けているだけの状態でしょう。

『荘子』(達生篇)に有名な「木鶏」が出てきます。本当に強い闘鶏は、まるで木で出来た鶏のように動ぜず、他の闘鶏たちは応ずることなく逃げていくという話です。これを短絡的に捉え、単に威力を消せという教訓だろうと勘違いする人がいます。ところが木鶏は、十二分な氣迫や血氣を養った後に完成するものであって、氣力無きまま到達する境地ではありません。

平生から文武に亘って修行に励み、しっかりした威厳を養っている人ならば、力を抜いたときや日常そのままのときでも、強いオーラが発せられているものです。それが『葉隠』の求める武士像なわけです。仏像の光背やキリスト像の光輪も、威厳として同じ意味があると思います。(続く)