その81 人間の本性はどちら? 性善説と性悪説

中国思想の特徴の第五は、多面的人間観を持っているということです。性善説と性悪説の双方を兼ね備えることで、人を善・悪どちらか一面に固定させません。善い面と悪い面の両方を、多面的に観ているのです。

誰にでも、困っている人を見たら放っておけない「仁の心」があります。目の前の人を見捨てるわけにはいかないと思う心に基づくのが、人間の本性を善と観る性善説の人間観です。これを唱えた代表的な思想家が孟子です。

その一方で、人間にはダメな人を蔑んだり、弱い者をいじめたり、モタモタしている人間に怒りを感じたりする一面があります。あるいは、嘘をついて人を騙し、平気で悪事を働き、社会の安寧を壊してしまう悪の性質を持っています。この、悪を為す人間性を直視した観方が性悪説です。

チャイナでは、春秋時代から戦国時代に入って下剋上が激しくなりますと、社会の秩序は益々乱れていきました。やがて儒家の中に荀子(じゅんし)という思想家が現れ、乱世を背景に性悪説を主張しました。

荀子は「人の本性が悪であることは明らかだ。それなのに社会が善を保っていられるのは、よく治まるよう人々が努力するからである」と述べます。人間はそのままでは乱れて(悪となって)しまうが、秩序を維持するよう人為(じんい)に努めれば、社会の安寧は維持されるという考え方です。

人為は、調和のために人が意識して努力することです。その行為を「礼」と呼びました。礼の旧字は「禮」で、「示」は祭壇に備えられた肉から血が滴り落ちている様子、「豊」は神前の祭器に豆を盛り付けた様子です。

つまり、お供えを上げて、ご先祖や神々をお祭りするのが礼なのです。言い換えれば、心を形に示すことが礼であり、ご先祖や神々を敬うのも、その一つとなります。

それから、感謝の心を会釈や謝辞(お礼の言葉)で示すことや、敬愛の心を丁寧な態度やもてなしで表すことも礼です。そうして礼法が整い、「こうすれば、こういう気持ちが伝わる」という、礼の通用する範囲が文化圏として形成されてまいります。

また礼は、それに外れると「恥ずかしい」という感情を起こさせます。挨拶を忘れる、お礼を言えない、お詫びの一言もない、などということになると、礼儀知らずの未熟者と思われてしまって恥をかきます。普通の人間ならば、恥知らずと思われたくありません。この恥の心が、秩序を乱す悪に対する歯止めとなって、世の中を平和に治めることになります。これを「礼治」と呼びます。

一番の理想は、人徳で治める「徳治」にあります。でも乱世になると、殺すか殺されるか、騙すか騙されるかという、暴力と不信が蔓延(はびこ)ってきます。そこで徳治に準ずるものとして礼治が唱えられたわけです。

さらに、恥を恥とも思わない世の中になりますと、礼治も効力を失ってしまいます。学校の給食費であれば、我が子の食事にかかる費用なのだから納めるのが当然であり、感謝の心と共に納入するのが徳治。本当は払いたくないのだが、未納入は親にとっても子にとっても恥ずかしいから渋渋ながらも支払うのが礼治。

問題は恥知らずです。恥も外聞もなく「頼んだ覚えは無いものは払わない」と決め込んで、ワガママを通そうとする輩がいます。そういう者に対しては、ルールによってペナルティを科すしかなくなります。法と罰です。それが「法治」であり、その大成者である韓非子について、次に述べていきましょう。(続く)