その86 この世界は、対極・対立関係ばかりで成り立っているのではない

陰と陽は同時に存在し、それぞれ強くなったり弱くなったりするのですが、陰だけ・陽だけとはなりません。陰が強めのときと陽が強めのときが巡るのであって、一方が勝ち残り、もう一方が消え去るということはないのです。

さらに、陰の中に陽が有り、陽の中にも陰が有ります。これを「陰中陽有り、陽中陰有り」といい、陰陽論は立体的な構造を持っております。

寒くて陰の季節である冬も、昼過ぎの陽だまりは暖かい陽氣が起こります。これが「陰中陽有り」です。暑くて陽の季節である夏も、明け方は涼しい陰氣が生じます。これが「陽中陰有り」です。

同様に「静中動有り、動中静有り」や「柔中剛有り、剛中柔有り」という循環もあります。「静」と「柔」は陰、「動」と「剛」は陽になります。

この陰陽論の考え方は、全ての事物の発展は矛盾をきっかけとすると捉え、その矛盾と対立を超えなければ高次の段階に進めないとする、西欧哲学の「弁証法」とは随分違うことに気付かれるはずです。

もともと弁証法には、問答法や対話法の意味がありました。やがてヘーゲル(1770~1831)というドイツの哲学者が、物事が発展する理論として弁証法を掲げます。

弁証法によれば、ある一つの立場を肯定する段階があり、それを「正」と言います。次に、矛盾を自覚して「正」を否定する段階の「反」に進みます。さらに「正」と「反」の対立を、より高次の段階で総合させる「合」の段階に至ります。そうして矛盾・対立する二つの立場が統一された状態を「止揚(アウフヘーベン)」と呼びます。

弁証法は、思考の偏りを避け、行き詰まりを打開しようとする際に有効だと思います。でも、そこに注意が要ります。何でもかんでも矛盾・対立で捉えようとしますと、二者を隔てる違いと溝が強調されていきます。結局、総合・統一に止揚されぬまま、どちらか一方を選び、もう一方を捨て去る二者択一で終わりかねません。

この世界は、対極・対立関係ばかりで成り立っているのではありません。二者が同質であったり、近似であったり、同類であったりして、協力関係にあることも多いというのが事実です。

例えば、同じ会社で働くAさんとBさんは、営業成績を競い合うライバルとして相手を蹴落とす必要はなく、同じ方向を向いて仲良く協力したっていいはずです。国家社会にあっても、支配階級と被支配階級が、いつでも対立関係にあるという見方は偏見です。社会秩序(SS)の成長期には、一般的に階級協力が盛んになります。

現象を対立関係で捉える弁証法は、全くの間違いではありません。間違いではありませんが、その正しさは部分の正しさです。部分や局所、特定の時期に起こる対立関係を、全体に当てはめてしまったところに問題があったのです。

よく観て下さい。物事には中間があり、そこに近似・同質・同類なものが存在しています。両端にN極とS極がある棒磁石の中間に、N極でもS極でもない中間部分があるようなものです。要するに、大抵(たいてい)の物事は、2つに分けて分類が済むほど簡単ではないというわけです。

こうして、西欧思想には矛盾・対立の弁証法が、中国思想には共生・循環の陰陽論があります。では日本思想はどうかというと、そこに中心論が加わります。陽陰二者は、ぶれない中心によってまとまっており、陽陰落差によって起こされる積極的な活動によって安定する、というのが我が国の生成論です。中心論と生成論は、日本思想の要と言えるでしょう。(続く)