その91 無我となれば、無限の力が生ずる

次に「無」ついて述べます。我欲への囚(とら)われや拘(こだわ)りから、離れるべきことを教えているのが無の思想です。無我や無欲、無執着の無であり、仏教に欠くべからざる哲理となっています。

無を悟れば、心の自由を得る道が開けます。自分を縛っている低レベルの私利私欲、即ち煩悩から離れていくことになり、それを解脱と言います。今現在の小さな殻を破り、本来の大きな自分を取り戻すための哲理として、無は綜學に必要な思想でもあるのです。

「無我の境地」という言葉を聞いたことがありませんか。負けたくないという面子(めんつ)や、得したいという焦りから解放された状態を「無我の境地」と言います。負けたくないと思うほど冷静さを失って勝てなくなり、儲けたいという我欲を出すほど肩に力が入って却って売れなくなるものです。無我は、我を忘れた無意識状態のことなのです。

それから、無我には「他の一切から独立した自分(我)なんていない」という意味もあります。たとえば自分の肉体は親先祖から頂き、身に付けた知識や知恵は恩師や友人たちから受けています。その事実を思うとき、縁ある人々や周囲との関係の中で存在しているのが、この掛け替えのない自分であるということが分かってきます。

ちょうどタマネギの実を剥(む)いていくときのように、自分を形成しているものを一枚一枚剥(は)がしていくと、「これぞ何ら他から影響を受けていない本来の自分だ」などと言い切れるものが無くなってしまうのです。我という存在の否定、それが無我であると。

さらに言い換えますと、何一つ自分のものは無いということが反転して、何一つ自分のものでないものも無いということになります。自分を構成する全てが“頂き物”なのですから、元々自分のものなんて無いということと同時に、自分を構成する一切が世界の隅々に繋(つな)がっており、自分のものでないものも無いということになるわけです。

少々回りくどい表現になってすみません。兎に角、この我(われ)が無い一方で、全てが我でもあるというところに、無我の“面白さ”があると言えましょう。

そうして我(われ)が無くなれば、名利に囚われた我欲状態を脱し、次第に「無欲」へ心が浄化されていきます。全てが我なのですから、私益のために生きたら、もう全然面白くありません。

どこまでも意識が広がって、まさに国益や地球益が我が事です。そういう人には、やがて必要なものが必要なときに与えられるようになるでしょう。自由自在の人生であり、そこに無欲の効用があります。

「無欲」ですが、一般に「足(たる)を知る」精神のことと思われがちです。が、単に現状に満足せよという諦観に留まるものではありません。

無欲になって両手がフリーハンドになれば、もっと大きなものを相手にすることが可能になります。自然体であることが基本ですが、遠慮することなく国家や世界を相手にしましょう。

国家が我が事、世界が我が事。そういう人の元には仲間や同志がどんどん増えてきて、天下国家を救う力は既に与えられているということに気付かされます。無我となれば無限の力が生ずるというわけです。(続く)