その94 不完全な自分そのままでいいから、誰かの役に立つ生き方をしよう

仏教の話を聞いたときに、「小乗」「大乗」という言葉を耳にしたことがありませんか。釈尊が入滅して約500年経った頃、仏教界に革新が起こりました。それは西暦紀元前後頃のことで、自分ひとり救われて終わるのではなく、一切の衆生(命あるもの)を救済してこそ釈尊の教えに叶うと考える仏教徒が現れたのです。

彼らは、自分たちの立場を「大乗」、それまでの仏教を「小乗」と呼びました。「小乗」は自分しか救われない小さな乗り物、「大乗」は自分も他人も一緒に救われる大きな乗り物のことです。自分は修行の途中で未熟だが、一日も早く縁ある人々を助けよう、そして共に救われようとするのが大乗の精神です。その大乗の広い心になるために必要な心が「慈悲」です。

慈悲の「慈」は、人を慈しんで楽を与えること(与楽)、「悲」は哀れんで苦を取って差し上げること(抜苦)です。慈悲の心は、釈尊の教えの原点です。お互いこの慈悲の心で生きていくなら、もっと幸せな世界になるはずでしょう。

ところが、どうしても命あるものは自分中心になってまいります。そもそも生命体は、自分を守って生き残ることに必死です。人間も、まず自分が食っていかねばならず、そのために他人を押し退けねばならないことが多々あります。

だから、普通に生きていれば、どうしても自我というものに縛られます。他者との摩擦や軋轢(あつれき)の中で、思い通りにならないのが当たり前の人生となってしまうのです。

さて、組織というものは、次第に惰性で活動するようになり、何もしなければどんどん活力を失っていきます。インドの仏教教団も形式化し、個人の悟りを目的とするだけの集まりになってしまいました。

その沈滞した状態を変えるには、「利他」に生きる大乗精神を起こさねばならなかったのです。利他は、他人の利益を図ることで、その反対が自利です。

ここが肝腎なことですが、大乗仏教では、煩悩を持つ不完全な我が身そのままでいいとしたのです。そのままでいいから、一切衆生を救う慈悲の心と利他の精神によって菩薩行に励めと。

「菩薩」は仏陀の次の位のことで、人間的な喜怒哀楽の感情を持っている存在です。修行の途中ですから、まだ人間味を十分残しています。でも、皆の役に立ちたい、世の中を良くしたいという願いは既に立てております。その不完全なままでの利他の行動が菩薩行なのです。

では、菩薩行に入るには、何から始めたらいいでしょうか。それには「喜ばれる喜び」の体験から入るのがいいでしょう。誰かの役に立って喜ばれ「有り難う」と感謝されたとき、人は何とも言えない嬉しい気持ちになります。まさに清々しい喜びであり、ボランティア活動も仕事も「喜ばれる喜び」が基本となっています。

しかし、利他の行為をしたのに全然気付かれないことがあります。せっかく自分がしてあげたのに、誰も認めてくれないと。その場合は、「陰徳」を積めたから良かったと思うことにしましょう。陰徳は、人に知られないようにしながら積んでいく徳のことです。陰徳は、普通の徳よりも、さらに高い徳となります。

そうして、菩薩行が進んでいきますと、自分を超えた大いなるものへの献身的愛が、もっと広がっていきます。愛する郷土や国のため、世界人類のため、あらゆる命あるもののため、という展開です。

日本に入ってきた仏教は、主に大乗仏教でした。世の為人の為に生きた日本人の多くが、仏教に学んでいたことは偶然ではありません。釈尊の教えは、日本人の生き方の正しさを証明し、その人生観を深めてくれたと言えるでしょう。(続く)