その95 弱者や不器用者、病者や貧者をお救いしてこそ、釈尊の教えに叶う

釈尊はまた、「平等」の大切さを説きました。最古の経典である『スッタ・ニパータ』に、次のような釈尊の言葉が出ています。生まれによって賤しい人やバラモンになるのではなく、行為によって賤しい人やバラモンになる。

バラモンは祭祀を司る司祭階級のことで、インドの身分制度であるカーストの中で最高の位置にあります。釈尊は、生まれによって人を差別するなと言って、カースト制度を否定したのです。この平等観は、女性に対する蔑視や軽視の否定ともなりました。

それから、「中道」も釈尊の教えの中にあります。中道は偏らないことを意味し、快楽主義や苦行主義などの極端なあり方を避けました。

本能のままに生きる快楽主義では悟りは得られないし、激しい苦行に没入する苦行主義でも、やはり悟りから遠ざかるというのが釈尊の気付きだったのです。食欲や性欲など、本能のままに生きているようでは動物以下になってしまいますし、ただ激しいだけの苦行や、魚肉や獣肉を食わないといった禁欲生活は、いつの間にか「行」自体が目的化していき、却って掴むべき本質を見失ってしまうというわけです。

『スッタ・ニパータ』には、占いなどの迷信に対する注意も書かれています。占いは参考にすべきであって、それに夢中になってしまうといけないということでしょう。占い師の言うことに囚われ、占いの結果を恐れてばかりいるようでは、どんどん主体性を失っていきます。

こうして極端を避け、迷信を信じないよう注意を促したことから、釈尊の教えは極めて常識的であり合理的でもあったということが分かります。まさにカムナカラ(かんながら)であり、綜學の精神そのものとも言えます。そして、この考え方は、やがて法然の悟りへ繋(つな)がることになります。

さて、宗教は一般的に、主観+裏観で成り立ちます。主観は「自分はこう思う」という観方のことで、神仏への信仰はその最たるものです。裏観は物事の本質を裏から掴む観方であり、平等観はその典型的な例です。

釈尊の教えを国学化(日本化)した日本仏教は、日本人の主観と裏観を大いに磨いていきました。主観的な自立力と、裏観的な包容力の、双方が養われたのです。

そうして、日本人の心根を深めました。本来日本人が持っていた、優しさや許しの心が深まったのです。裏観による平等観で、やんちゃな子や出来の悪い子を見捨てず、分け隔て無く接する許容心が育ちました。同時に主観による自立力で、菩薩行に生きる利他大乗心が磨かれたのでした。

この仏教精神を失うと、日本人は冷たくなってしまいます。弱者や不器用者、病者や貧者をお救いしてこそ、釈尊の教えに叶うことになります。近代以降の日本社会は、強者、利口者、富者などを優先し過ぎました。それによる歪みを直すためにも、仏教精神は見直されるべきと思います。(続く)