その102 密教の全てを学んだ空海は、日本への帰国を希望。そこにも運が働く!

後継者がおらず、憂いを抱えていた恵果の元に現れたのが、日本からやって来た空海でした。恵果は言いました。

「私は先頃から、あなたが長安に来ているのを知っており、ずっと心待ちしておりました。今日、こうして会えることが出来てとても嬉しいです。間もなく私の寿命は尽きようとしていますが、本義を受け継いでくれる相手がおりません。さあ、直ちに灌頂をお受けなさい」。

病気のため余命幾ばくも無い状態だった恵果は、最後の力を振り絞って、自分が修めた密教の全てを空海に授けたのでした。

密教には、ガンジス川流域に起こった大日経系と、南インドに起こった金剛頂系の2系統があり、その両方を継承していたのが恵果です。その師から灌頂を受けることによって、空海は両系統を統一する密教の正統後継者となったのです。

密教の一切を空海に伝えた恵果は、使命を終えた満足感と、生命力を使い果たした脱力感から、その4ヶ月後に没します。恵果を追悼する碑文は、弟子を代表して空海が撰したというのですから、空海の能力の高さが分かります。

恵果と師弟の縁を結べたことは、本当に運でした。もしも空海の渡航が後れていたら、恵果没後の入唐ということになっていたかも知れません。そうなれば、密教を教えてくれる指導者に出会えなかったのですから、恵果と空海の二人に対して運が働いたというわけです。

密教の全てを学んだ空海は、日本への帰国を希望しました。でも、長期留学生として入唐した空海に、帰国の許可は簡単には下りません。その許しを貰うには、日本国を代表する使者を通して唐の皇帝に願い出る必要がありました。

丁度そのとき、遣唐判官・高階遠成が、たまたま入唐しました(唐皇帝の崩御や即位に対する慶弔の使者として派遣されたという説があるものの定まってはいない)。空海は高階を通して帰国申請を提出し、許可を受けて遣唐判官の船で帰ることが出来たのです。まるで、空海を迎えに来たかのようなタイミングの良さであり、またまた運が働きました。

空海は33歳の10月に帰国しました。しばらく九州で待機し、唐から持ち帰った仏具や仏画、経典などを記録した『請来目録』をまとめ、それを朝廷に献上しました。これには、短期間で帰ってきてしまった理由を釈明する意味もありした。

いよいよ空海は「人生の高原期」に入ります。36から57歳にかけてが、社会活動に励み、教育機関を確立し、執筆にも努める、人生で最も精力的な時期でした。

36歳で帰国後初めて入京すると、最澄が早速近付いてきました。最澄は天台学の習得の傍ら、ついでに密教も学んでおりましたが、それは雑密の類に過ぎませんでした。空海が密教の最高位を極めて帰国したことを知った最澄は、自分が身に付けた密教が低レベルであることを自覚し、頭を下げて空海から学ぼうとしたのです。また、中国文化に精通されていた嵯峨天皇との交流も始まり、空海は単なる僧侶を超えて時代の先頭に立つことになります。

以後、下記のような活動をします。
40歳、東大寺別当となる(別当とは、寺務をまとめる長官のこと)。
43歳、高野山開創を上表。
48歳、讃岐の満濃池を修築。
49歳、東大寺に灌頂道場(真言院)を建立。
50歳、東寺を給わり密教専門道場とする。
55歳、民衆教育機関である綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を創立。
57歳、『秘密曼荼羅十住心論』『秘蔵宝鑰』を著す。
そして62歳で入定しました。(続く)