その104 ああ自分は、なんて自己中心的で小さかったのだろう…

空海の説いた十段階の「心の進化プロセス」、それが「十住心論」です。「住心」は心の住むところであり、その第三住心まで解説しました。

第一住心は、道徳心や宗教心が乏しく、欲望に従ってのみ生きている動物的段階。第二住心は、道徳心は起こってきたが、人から立派に見られたいという表観が強く、子供じみた自己顕示欲に覆われた段階。第三住心は、宗教心に目覚めてきたものの、神様が守ってくれるから安心といった程度の、幼児的な安心感の段階、ということでした。この第三住心までが、世間的な人間心の段階です。

これに続く「第四住心」から、仏教による心の進化プロセスに入ってまいります。第四住心は、否定と疑問の心によって、第三住心までの童心(小児的な意識)を去る段階です。

子供が素晴らしいのは、その素直な心にあります。ですが反面、自己中心的でもあります。「ねえ聞いてよ、ボクはね…。こっちを見てよ、わたしはね…」というふうに、常に自分に注意を惹いて貰いたがっています。

子供ならそれでいいのですが、大人がそれでは頂けません。いくら道徳心や宗教心を持とうとしても、心が子供のままでは、つまらない自己顕示欲や幼児的な安心感から、なかなか抜け出せないままとなります。

そこで一度、「自分とは一体何者なのか」、「この自分は本当に存在しているのだろうか」、あるいは「立身出世に囚われている自分は、真の自分なのだろうか」、「何となく救われたという安心感に、ただ浸っているだけでいいのだろうか」、などと疑ってみるのです。

そうして自分という存在を率直に客観視してみますと、自己中心的で小さかった自分に恥ずかしさを感じてくると思うのです。これまで単に人から誉めて貰うために生きてきたことや、神仏に救われているという感覚に酔っていた小児的な自分に気付いてくるというわけです。

人生に脱皮は必要です。一旦、過去の自分を否定することが出来れば、きっと殻を打ち破るきっかけともなるはずです。

但し、第四住心に到っても、まだ関心が自分のことに留まっており、自己一身の救いと向上が生きる目的になっております。否定と疑問によって一応見識は高まるのですが、何かを語ったとしても、いわゆる批評家止まりで自己確立されたものは殆ど無い状態です。

この第四住心は、「唯蘊無我心」(ゆいうんむがしん)と言います。「蘊」は積み集められた物のことで、この世に実在する物は全て「蘊」に過ぎません。

従って「唯蘊」は、ただ物のみが実在するという意味です。ただ物しかないのですから、自己という特別な存在は否定されます。この世には、ただ物のみが実在していて、そもそも個別の我(自分)なんて無いと。それが「唯蘊無我」です。

少し専門的な解説を加えておきますと、第四住心は仏教の入門段階にあたる「声聞乗」、つまり声(教え)を聞いて悟る段階に相当し、奈良仏教の具舎(くしゃ)宗と成実(じょうじつ)宗が、これに属しております。

次に進みましょう。第四住心から第五住心へ移るカギ、それは「因縁」です。因縁の「因」は直接原因、「縁」は間接原因のことで、無我の向こうを因縁によって悟ります。

自分なんていないというのが「無我」でしたが、その向こうを悟るとは一体どういうことでしょうか。兎に角それが「第五住心」であり、一旦否定された自分の、もっと奥に存在している自分、言い換えれば因と縁で成り立っている自分に気付いていく段階となります。

確かにこの身は、一切の因縁によって成り立っています。天地自然や人間社会の、あらゆるものに囲まれ、多くのご縁を頂きながら生きております。それを理解しなければ実際の自分に気付けず、自己否定から脱却出来ません。なお、その気付いていない状態を、無知・無明と言います。

但し、この段階も、未だ自己一身の無知・無明に対する自覚が主であって、きちんと人々の役に立ったり、世の中に何かを伝えたり・教えたり、というところまでいきません。自己一身の悟りであり、人々を教化し利益(りやく)するということがないのです。

第五住心は、「抜業因種心」(ばつごういんじゅしん)と言います。因縁を正しく自覚することによって、悪「業」の原「因」となる無明の「種」を「抜」き除くという意味です。

これも専門的な説明ですが、この因縁による悟りが「縁覚乗」です。縁覚は「独覚」とも言われ、師の教えによらないで「独」力で因縁を「覚」ることです。

さて、せっかく「因縁によって構成されている自分」を知ったのに、第五住心レベルのままでは、自己中心的(自利)な自己満足の状態に留まってしまいます。

さらに一段上の第六住心へ行くためには、「唯識」というカギを使わねばなりません。心を広げて、いよいよ人の役に立ち、世の中の役に立とうとする段階へ進みます。(続く)