その105 自分だけ幸せになっても仕方ない、ということに気付けるかどうか

自分だけが救われる小さな乗り物、それを「小乗」と言います。自分一人ではなく、仲間と一緒に救われていく大きな乗り物、それが「大乗」です。釈尊の説いた慈悲の心を実践するためには、当然のことながら大乗に立たなければなりません。その大乗精神への入り口が「第六住心」です。

第六住心は、人の役に立ち、世の中を変えようという、利他の慈悲心を起こす段階です。この次元に入れば、自分の心を広げ、あらゆる命あるものに対して愛情(一切の衆生への愛)を持てるようになります。

既に第二住心でも、善いことをしたいという心が芽生え、人に物を施し、社会の役に立ちたいという善心が起こっていました。でもそれは、他人から認められたい・誉められたいという、自己中心的な童心が己を支配していました。この第六住心になれば、我を忘れ、自分は後回しでいいから誰かのため・何かのために生きたいといった、自分を超えた利他心のレベルに到達します。

世のため・人のために努力しているものの、まだ何かが足りないという人を見受けることがあります。そういう人は、我を忘れて利他に生きるということが結局出来ず、取り巻きにちやほやされ、お山の大将でいることに自己満足するという童心から、なかなか抜け出せないことが原因だと思われます。

第六住心へ上がるためのカギは「唯識」です。唯識は、全ては意識作用の現れであるという、いわゆる唯心論の見方のことです。あらゆる存在は心が現象化したものである、という立場に立っているのが唯識論や唯心論です。大宇宙は宇宙意思の現れ、地球の成立は地球存立意識の現れ、人類の誕生も人間使命の現れということになります。

唯識によって全てが精神の現れであるということに気付きますと、今まで自分を覆っていた固定観念が取り払われていきます。固定観念というのは、自分は自分、他人は他人、これはこれ、あれはあれというように、物事を分けてしまう心の垣根のことです。

心によって作られていた垣根は、心によって消えていきます。唯識の働きでそうなれば、心が広がります。遮っていたものが無くなって、もっと心が広がるのです。

その結果、やがて自己への執着を超えられるときが来ます。あらゆる生きとし生けるものである衆生の存在に気付き、自分だけ幸せになっても仕方ない、衆生と共に歓喜に生きねば意味が無いという、大乗の心や慈悲の心が養われてまいります。

その心が、身の回りから始まって、いろいろなご縁である「他縁」へ広がっていくわけで、これを「他縁大乗心(たえんだいじょうしん)」と言います。

但し、この段階では、まだ表観(表面的な観方)に囚われています。人々の素質や能力を区別し、どうしてもその違いを差別しながら見てしまうのです。その差別観が元になって、能力や修行の差を踏まえつつ、誰もが仏になれわけではないとする見方に立つことになるのが第六住心です。

奈良仏教では、法相宗が第六住心に相当します。大乗に生きる菩薩(ぼさつ)の教えと唯識哲学を合わせたのが法相宗で、大陸では揚子江以北に伝わった宗派です。

先へ進みましょう。第六住心から第七住心へ向かうカギは「空(くう)」です。

◇「空」によって、区別や差別を超えていく◇

「第七住心」は「空」の哲学によって、第六住心で生じた区別や差別を超える段階です。第四住心の「自己の否定」に続き、この第七住心では「一切を空であると否定」します。空によって有無(うむ)の執着を離れ、この世界に固定された実体は無く、全ては空であるということを悟ります。

即ち、主観を徹底的に排除した大客観と、現象の奥を感得した大裏観によって、一切の存在が儚(はかな)く空虚であるという事実を掴むのです。よくご覧下さい。あらゆる存在は無常であり、留まることなく姿を変えていきます。だから一切の実体が空であり、そもそも区別も差別も無いのであると。

こうして、2回目の否定で再度殻を破ります。もう一度囚われを捨て去ることによって、世界を深く捉え、さらなる成長を目指してまいります。

なお、第五住心のところで「因縁」という言葉が出てきました。「因」は直接原因、「縁」は間接原因で、因縁を正しく自覚することで、因縁によって構成されている自分を掴むことが出来るということを述べました。

この因縁というキーワードが、第七住心でも必要になります。あらゆる存在が因縁によって生じているのであれば、その一つ一つの因縁を取り外していけば実体は無くなってしまいます。

すると、元来「自性(じしょう)」は無いということになります。自性とは、固定的な実体のことです。

このようにして、一切は空無であるということが認識されるわけです。なお、第五住心と第七住心とでは因縁のレベルに差がありまして、第五住心は自己の因縁、第七住心は全ての因縁です。

第七住心は「覚心不生心」(かくしんふしょうしん)と言います。囚われの「心」を超えて「不生」不滅を「覚」る「心」という意味です。この「空の思想」が教理の根幹となっているのが、奈良仏教の三論宗です。

但し、このまま行ってしまうと、全てが空しくなって虚無主義ともなりかねません。世界は幻に過ぎない、この自分も本当は空虚。あまりに虚しくて、生きている意味が分からないと。

そこで、空をもとに何を掴み直すかです。十住心論は、いよいよ最終段階へ向かってレベルを上げていきます。次の第八住心へのカギは「仏性」です。(続く)