その106 インテリに、ヤル気や情熱に乏しい人が多いのはなぜか?

第七住心は、物事を区別したり差別したりする表観的な「囚われの心」を超え、生ずることも滅することも無い「空の世界」を覚る段階でした。でも、それが行き過ぎると、「空の思想」は虚無主義を導いてしまいます。

ところで、インテリ(インテリゲンチャの略、知識人・知識階層)にヤル気や情熱に乏しい虚無主義の人が多いように思います。勉強熱心で知識豊富なインテリに、人生を虚しく感じる傾向が生ずるのはなぜでしょうか?

それは、学んだ中の「部分観や対立観などの思想」が「空と同様の否定観」に働いてしまい、せっかく頭に入れた知識が細分化・断片化されたままとなるからです。

また、知識のみのインテリには、思考に深まりというものが見られません。単に「その用語は○○思想の中にもある」とか、「その考え方は○○哲学に似ている」とかいうように、表面的な類似性や関連性を認識するレベルで終わっていて、その人自身の生き方や信念に体得されるということが殆ど無いのです。これも結局、学問と人生が区別され、知識と信念が差別されていることが原因でしょう。

学んだことと生き方が分離していたら何にもなりません。区別された断片的な知識によって心は益々冷めていき、この世界に意味は無く、存在は幻に過ぎず、自分も結局空虚でしかないという虚無主義に陥ってしまいます。

そこで、空をもとに、それが虚無主義とならないよう何を掴み直すかです。次の第八住心へのカギは「仏性」です。仏性とは仏陀、即ち「目覚めた人」になるための性質や可能性のことです。目覚めるとは宇宙真理を悟ることですから、仏性は「宇宙と結ばれた個々の本性」と言い換えてもいいでしょう。

既に第七住心のところで、固定的な実体が無く一切が空であることを識りました。一切が空であれば、滞りも凝り固まりも無く、本来この世は清浄です。世界が清浄であれば、全てに仏性が行き渡る基盤となります。そして、仏性があれば、救われる可能性において、一切は平等となるのです。

第八住心は「一道無為心」(いちどうむいしん)と言います。「一道」は唯一絶対の仏の道(教え)、「無為」は為作(わざと為し作ること)の無いことです。第八住心は清浄なるがゆえに、低次元な因縁による為作を超えられるのです。

その救いのための、一切を乗せる大きな乗り物があります。それを「法華一乗(一仏乗)」と言います。第八住心は、全てに仏性が宿されていることを悟る段階であり、宗派としては天台宗に相当します。

では、その仏性の大本とは何か。それを解明するのが、第九住心へのカギである「統一」です。(続く)