その110 既成仏教に失望!なんと最澄は“仏教界での出世”を捨ててしまう!

空海と共に唐に渡った、もう一人の有名な僧が最澄(767~822、神護景雲元年~弘仁13年)でした。最澄は、その名の通り最も澄んだ理知的な思想家です。大変真面目な性格を持ち、自分を誇張させて見せようとするようなタイプではありませんでした。

最澄が開いた日本天台宗には綜學的な幅広さがあり、最澄もまた綜學の先達と見ることが出来ます。天台宗というのは、智?(ちぎ)という僧が、西暦6世紀のチャイナで大成させた仏教の一派です。天台宗の中心的経典は法華経で、一切衆生(全ての命あるもの)に仏性があり、成仏(仏と成って救われること)の可能性があることを教えています。

法華経に着目した日本の最初の指導者が、あの聖徳太子でした。太子は、あらゆる人々を救おうとする法華経の精神を重視し、それによって日本人の意識レベルを向上させようとしたのです。その精神を「一乗思想」と言い、「一乗」とは万人が乗ることの出来る乗り物のことです。太子は「一大乗」という言葉を用いて法華経の哲理を啓蒙し、最澄はこの聖徳太子の願いを受け継ぐ正統後継者になろうと志したのでした。

また太子は、日本の国柄を守ることを使命と心得た指導者でした。最澄はその思いを継承し、都の艮(うしとら、北東)の方角の守護(鬼門封じ)として、比叡山に鎮護国家の根本道場である延暦寺を建立しました。

近江の国に生まれた最澄は、12歳で出家し、19歳のときに奈良の東大寺で受戒します。最澄は、出家者が守るべき「戒(かい、行動規範)」である「具足戒」を受けたのです。

ところが最澄は、受戒してすぐに比叡山に登って修行に入ります。悩める民衆を救うことを忘れ、教義研究に偏りがちな既成仏教に、最澄は飽き足りぬものを感じたことが理由です。奈良を離れて比叡山に登り、山岳修行に励むことを選んだということは、仏教界での出世の道は諦めたということを意味します。

革新は、常に現状に不満足な者から起こされます。変革者を志した者は、既に手に入れている権威や地位など、何らかの価値あるものを捨てねばなりません。権威や地位などというものは、旧体制から貰うものが殆どです。それらにしがみついていたら、旧体制の中に埋没するだけとなるでしょう。

若き最澄は、変革者として生きることを決意しました。変革者を選んだ以上、世の不理解と批判に晒され、孤独との戦いを余儀なくされる人生が待っていることは、最初に覚悟しておかねばなりません。

最澄が求めていたのは、悩み苦しむ一般民衆に対する魂の救済です。万人を救うための原理を法華教に見出した最澄は、やがて38歳のときに入唐し、その奥義を学んで翌年帰国します。短期留学生であった最澄は、天台山には登ったものの、唐の都である長安は訪ねていませんでした。

最澄は天台学を修めたことの他、雑密(雑な密教)や禅(止観)も学んでいます。日本に戻ってきた最澄は、彼が最も大事にしたい天台学ではなく、ついでに学んだ密教がもてはやされることになります。(続く)