その111 あなたが自分自身を信じている以上に、私はあなたを信じる!

神社やお寺にお参りすると、何とも言えない清々しい気持ちになります。心身に溜まっていた暗い気分が、お祈りで祓われるからです。さらに、神職に大幣(おおぬさ)でバサバサと祓って貰えば、もっと清まることになります。

最澄の時代、そのお祓いにとても関心が集まっていました。平安時代は、怨霊(おんりょう)による祟りを恐れ、病気もその仕業であるという考え方が“常識”だったのです。怨霊とは、怨みを抱いて祟りを起こす悪霊(あくりょう)のことです。悪霊をしっかり祓って貰いたいというのは、当時の人たちの切なる願いであり、有効なお祓いの出来る祈祷師が必要とされました。

最澄は帰国後、留学の成果を桓武天皇に報告します。ところが天皇は、肝腎の法華経の教えよりも、密教によるお祓いに関心を示されました。そこで最澄は、雑密の知識を駆使して祈祷を行ったのです。

やがて、正統密教の奥義を学んだ空海が帰ってきます。空海が持ち帰った密教が、いかにハイレベルであったかは『請来目録』を見れば一目瞭然です。『請来目録』とは、空海が唐から持ち帰った仏具や仏画、経典などの一覧表のことで、目録は朝廷に献上されていました。

目録に目を通したであろう最澄は、正統密教をきちんと学びたくなりました。そこで、空海に接近します。同時に入唐していた二人の交流が、ここに始まったのです。

しかし、空海から最澄への指導が進みますと、やがて両者の密教に対する姿勢の違いが明らかになります。空海にとって密教は命そのものですが、最澄にしてみれば大切なのは法華経であって、密教は天台宗を補うための手法に過ぎませんでした。

「ここから先を修めたければ、今まで学んだ学問から離れて密教一本に絞りなさい」。そのように空海から密教専一を求められましたが、今さら法華経を根本経典とする天台宗を捨てるわけにはいきません。空海と最澄は、絶交することになりました。両雄並び立たずとは、まさにこういうことを言うのでしょう。

最澄は、奈良仏教者との論争にも熱意を注ぎました。とくに会津・慧日寺の徳一(とくいつ)上人との、手紙の遣り取りによる激しい論争は有名です。徳一は、奈良・興福寺で学んだ法相宗の僧で、会津・慧日寺の開山となります。

その争点は、成仏(目覚めた人に成ること)における見解の差異にありました。法相宗では、人によって成仏の可能性に区別があるとし、生まれながらに小乗レベルの人、同じく大乗レベルの人、小乗と大乗のどちらに行くかは修行次第の人、はじめから成仏は無理な人、そもそも全く仏縁の無い人に分かれるという見解を示しています。

それに対して、あらゆる人に仏性(仏となれる本性)が備わっており、誰もが救われる可能性を持っているとするのが最澄の見解でした。

この論争は、人間についての観方の違いが元になっていました。徳一は現象(現実)から人間を観、最澄は本体(理想)から人間を観ていたのです。

人間を現象から観れば、能力や個性に差があり、業の深い悪人や、根気の続かない弱い者の存在が目に付きます。いくら言っても本質を理解してくれない人に、お手上げ状態となって悩まされることもよくあります。およそ今世では救われ難いと思われる人たちで溢れているのが、確かにこの世の現実です。

しかし、人間には「頓悟(とんご)」という一気に悟る力があります。それまで私利私欲に囚われ、低レベルの欲に迷い、嫉妬と憤怒に満ち、人を騙し傷付けながら生きてきたのに、あるとき突然利他に生きることに目覚め、以来、菩薩行に励むことになったという人がおります。

すぐにでも変わってくれそうな人が結局変わらず、変わるわけあるまいと思った人が目覚めてくれるなど、誰がいつ、どのように変わるかは案外分からないものです。

その「目覚める可能性」が仏性です。そもそも仏性を否定したら、仏教そのものの否定になってしまうではないか、というのが最澄の思いだったのでしょう。

あなたが自分自身を信じている以上に、私はあなたを信じる。あなたはまだ心が揺れているようだが、私はあなたが救われるであろうことを固く信じている。なぜなら、あなたには仏性が宿されているのだからと。(続く)