その113 堕落した比叡山に失望し、疑問を抱き、やがて新たな宗派を興す!

最澄が比叡山延暦寺を創建したのは、まだ平安時代初めの延暦7年(西暦788年)のことでした。延暦寺は、日本仏教の根本道場であり、都の鬼門を守る国家鎮護の大寺として建立されました。

ところが、どんな組織・団体にも“経年劣化”が起こります。時代を経ると共に初期の純粋な情熱が失われ、活動が惰性で行われるようになっていきます。延暦寺もその例から外れることが出来ず、次第に巨大な権威の固まりと化し、世俗と変わらない名利を競い合う場に堕ちてしまいました。

平安末になると、そうした比叡山の堕落に憤りを感じ、改革を志して新たな宗派を立てる僧侶が続々と出てきます。浄土宗開祖の法然(ほうねん)や浄土真宗開祖の親鸞(しんらん)、日本曹洞宗開祖の道元(どうげん)、日蓮宗開祖の日蓮(にちれん)がそれであり、これから述べる栄西(えいさい・ようさい、1141~1215、永治元年~建保3年)も、その一人です。彼らは鎌倉仏教開祖と呼ばれる、日本仏教の改革者たちでした。

法然、親鸞、道元、日蓮、そして栄西らは、いずれも比叡山延暦寺で学んでいます。従って、伝教大師最澄の教えによって育った僧侶なのですが、それぞれ堕落した比叡山に失望し、疑問を抱き、やがて新たな宗派を興すことになります。

そもそも世俗の欲望から離れるところに、比叡山での修行の意味があるはずです。なのに、比叡山自体が官位を求める出世競争の場となっていたことに憤った栄西は、天台密教を“本場”で学ぼうとして宋への留学を決意しました。

そして、22歳のときに叡山から下りて故郷に帰ります。備中・吉備津神社の神官の子に生まれた栄西は、それから約5年間故郷で学びます。備前の金山寺(かなやまでら)や日応寺で修行しました。

そして、28歳のときに入宋(にっそう)を果たすのですが、何と五ヶ月の滞在で見切りを付けて帰国してしまいました。宋では、すっかり密教が衰えていたからです。

栄西は、比叡山と故郷の寺での修行によって、天台密教と真言密教の両方を学んでおりました。さらに、短期間とはいえ宋にも渡ったのですから、押しも押されもしない密教の第一人者となっていました。帰国後、約6年間岡山で、さらに約10年間九州で、密教僧として講義や研究に務めました。

丁度その頃が、平清盛が覇者となり、源平争乱期となっていた時期です。都から離れた西国で活動することで、その争乱による戦禍を避けられたとも言えるでしょう。

さて、通常の成功者であれば、この西国で活躍が人生の全盛期となります。ところが、栄西はここで満足しませんでした。なんと、もう一度入宋を志すのです。そして、綜合仏教の指導者として大成します。(続く)