その114 栄西47歳~隠居の年齢で一から学び直し、人生2段階の成長を果たす

もう一度宋に渡ろうという決意をしたのは、栄西の心の中に「このまま終わってなるものか!」という思いが湧き起こっていたからでしょう。栄西は44歳になっていました。昔は人生50年と言いましたから、もう新しい事を始められる年齢ではありません。隠居を心に決めてもおかしくない年齢で、海外留学を志したのですから本当に凄いことです。

しかも、栄西の気持ちは宋に留まっていません。その先のインドに向いていたのです。即ち、釈尊の原点に帰ろうとしたのです。

チャイナに留学した僧なら、それまでにも沢山いましたが、仏教誕生の地インドを訪ねようとした者となると、さすがに日本にはおりません。かつてチャイナからインドに渡った玄奘(三蔵法師)に己をなぞらえたのですから、これはもう大変な驚きとしか言いようのないことでした。

数年間は渡航の準備期間となりました。45歳のとき、後鳥羽天皇に召されて都の神泉苑で降雨を祈っております。その祈祷が天に通じて雨が降り、葉の上の雨粒に栄西が映ったことから「葉上」の号を賜っています。皇室との縁が出来たことは、後の都での布教活動の布石となりました。

そして、47歳のときに二度目の入宋を果たします。今度は、約4年間滞在しました。残念ながらインドへの道は絶たれていました。蒙古(モンゴル)による侵略が活発化していたため、西域は危険に満ちており、通行の許可が下りなかったのです。

しかし、虚庵懐敞(きあんえしょう)という僧から「釈尊が悟った基本は禅にある」ということを教えられ、真剣に禅を学ぶことでインド行きの目的は達せられることに気付きました。

栄西が学んだ延暦寺にも禅は伝えられていましたし、一回目の入宋のときに、宋で禅が盛んになっていることも、その目で見ております。だから、禅に対する一定の知識は持っていたのですが、今度は性根を据えて禅を修めることになり、臨済宗黄竜(おうりょう)派の禅を学びました。

宋にいる間、疫病が流行しました。皇帝は僧たちに病魔退散の祈願を命じるものの、なかなか効果が現れません。そこで、密教を修めている栄西が指名を受けて祈願しましたところ、たちまち疫病は止んだそうです。喜んだ皇帝は、栄西に「千光法師」の称号を授けました。

そうして、僧として一から学び直した栄西は51歳で帰国し、九州で、関東(鎌倉)で、京都で活躍することになります。栄西は、人生2段階の成長を果たした人物だったのです。(続く)