その115 鎌倉時代の栄西~60歳を超え、京都と鎌倉を精力的に往復!

二度の入宋を果たした栄西は、帰国後まず九州各地に寺を建て、その教えを伝えます。栄西による臨済禅が、九州の人々に広まりました。

しかし、急速に拡大すれば、必ず既存の勢力と摩擦が生じます。延暦寺の圧力によって、朝廷は禅宗の布教を禁止してしまいました。この延暦寺の権威主義に嫌気が差したところに、そもそも栄西が比叡山から下りた理由がありました。

そこで著したのが『興禅護国論』です。その中に、文字と言葉によらず心に悟れという禅宗の根本思想が示されます。また、禅宗が「東北方」で広まるという仏典(大般若経)の予告が記されました。東北方の中に日本が含まれていることは言うまでもありません。それから、自分の死後50年経って禅宗が栄えるということを、『興禅護国論』の末尾(未来記)で予言しています。

59歳になった栄西は、関東へ下向します。幕府の置かれた鎌倉では、征夷大将軍・源頼朝の妻である北条政子や、頼朝の後を継いで将軍となる源頼家らの尊崇と帰依を受けます。頼朝の一周忌法要の導師を務めた栄西は、鎌倉で一番の僧侶となりました。

そして、政子の発願により鎌倉に寿福寺が、頼家の土地寄進によって京都に建仁寺が建立されます。鎌倉五山・第三位である寿福寺は、政子や三代将軍・源実朝のお墓があることで知られています。

60歳を超え、栄西の熱意はさらに高まります。建仁寺と寿福寺の二つの寺を拠点に、精力的に京都と鎌倉を往復し、仏教の興隆と弟子の育成に務めました。栄西が74歳のときには、後に日本曹洞宗を興す道元が建仁寺に入って参禅しております。

栄西は75歳で亡くなります。京都の建仁寺で入寂したとされていますが、終焉の場所は鎌倉の寿福寺だという説もあります。どちらが最期の地か分からないくらい、関東と京都を往復していたということでしょう。(続く)