その116 栄西の知名度は低いが、その綜學的性格に敬意を表す

鎌倉仏教開祖の中で、栄西の知名度は最下位と言えます。生前は、皇室を助け、二度も入宋し、宋皇帝を感動させ、幕府のある鎌倉には寿福寺を、天皇がお住まいの京都には建仁寺を持ち、日本仏教の振興に大いに力を尽くしたにも関わらず、法然・親鸞・道元・日蓮らのような“人気”が無いのです。

その原因は、臨済宗の一派である建仁寺派(黄竜派・おうりょうは)の開祖に過ぎなかったことにあります。この点は、道元が日本曹洞宗全体の開祖であったことと異なります。また、“栄西思想”とでも言うべき思想の創造と、その体系化を図らなかったことが、知名度の低さの理由となりました。生前に社会的成功を収め切ったことも、死後に意志が残り難くなった要因かも知れません。

しかし筆者は、栄西の綜學的性格に敬意を表したく思います。創建当時の建仁寺は、天台・真言・禅を学べる綜合道場でした(※建仁寺は延暦寺の末寺としてはじまる)。戒律も重視し、言葉と行動と生活を正すよう教えました。栄西は禅のみの師ではなく、日本仏教そのものを綜合的に改革しようとした指導者であったことが分かります。

日本禅宗の元祖としての意義には、大きなものがありました。禅宗は鎌倉武士に伝わり、まず心身を鍛えねばならなかった武士の本分に適(かな)いました。核心を直ちに掴ませることを教える禅は、武士の決断力を助けました。「死に切れ!」と喝を入れる禅は、損得勘定を超えて覚悟を据えるべき武士の死生観を養いました。

禅に喫茶が不可欠であることを日本に伝えたのも栄西です。座禅の後の眠気覚ましで茶が飲まれたのですが、喫茶の習慣を広く一般に広げる元となりました。

お茶を出す際、問われたのは無心に出せるかどうかです。良く見せようなどと思わず、囚われのない「空の心」で出せるよう、弟子たちは修行に励みました。(続く)