その117 天人合一と心身一如を基本精神とする綜醫學

第5章「綜學の実践」

◇怒りには悲しみを、悲しみには喜びを、喜びには恐れを…ブレンドせよ◇

前章は綜學の各論として、東洋思想や仏教思想を述べました。本章では、綜學の実践編をお伝えします。

最初は綜醫學(医学)からです。綜醫學は綜學の医学的各論であり、天人合一と心身一如が、その基本精神となります。

天人合一は、天地自然と人間生活が不即不離であること、心身一如は、精神と肉体が一体となって人が生きていることを意味します。

江戸時代中期、杉田玄白や前野良沢らによって『解体新書』の翻訳が行われ、オランダ医学が我が国に入ってきました。明治時代になると、医学の分野でも文明開化が進み、西洋医学による解剖学や生理学、病理学などが盛んとなります。

それらによって公衆衛生学や近代的な診断・治療技術が発展し、伝染病の恐怖から解放され、それまで助からなかった多くの国民の命が救われるなど、その功績に極めて大なるものがありました。

しかし、どんな物事にも長短があります。西洋医学の基盤は西洋思想にあり、人間も一つの機械であると考えた思想(人間機械論)が医学にも及びました。人体の仕組みを細かく分析して、生命を解明しようとしたのです。人体を骨格系・神経系・消化器系・呼吸器系などに分けていき、胃・肺・肝臓などに分解する解剖学がそれです。

そして、病気はそのどこかの部品が悪くなった状態だから、そこだけ修理するか取り替えればいいという考え方に到ります。診断は、その悪い箇所を発見して病名を付けることであり、眼科は目だけ診、胃腸科は胃や腸を専門的に診るというシステムが出来上がったのです。

そうして、西洋思想の部分観が西洋医学を部分医学に導き、全体観を失ってしまう偏りが生じました。人間を一つの全体として観ることを忘れて患部だけ診てしまい、季節や生活環境をさほど考えないまま年齢に応じて一律の薬を患者に与えてしまうといったことです。病名は熱心に探しているが人間を観ていないとか、身体だけ診ていて精神を観損なっているといった状態が起こったのです。

それに対して東洋医学の漢方では、身体と精神を分離しないで様子を診断していきます。少しご紹介しますと、怒り過ぎると「肝」を、喜び過ぎると「心」を、思い込み過ぎると「脾」を、悲しみ過ぎると「肺」を、恐れ過ぎると「腎」を悪くすると考えています。

ではどうするかというと、それへのバランスの取り方として、怒りには悲しみを、悲しみには喜びを、喜びには恐れを、恐れには思いを、思いには怒りをブレンドせよと漢方では教えます。

誰かに対して怒っていたら、相手にもそうせざるを得ない辛さや悲しさがあったということを感じ取れ。悲しみにくれているときこそ、これから起こる楽しいことや嬉しいことをイメージせよ。喜びが頂点に達したときは、その陰で嫉妬している人がいることを恐れよ。恐怖に襲われたときは、恐がってばかりいないで冷静に思いを巡らせて解決の手順を練れ。あれこれ思ってばかりいて動けないときは、怒りや憤りを心中に起こして立ち上がれ、という次第です。

このように東洋思想では、身体と精神を分離していないということを分かって頂けたら幸いです。綜學的な心身一如の観方が、漢方にはあるのです。

なお、肝・心・脾・肺・腎は、臓器それ自体を指しているのではなく、それぞれの臓器を基本とした全身調整の機能を意味しています。「脾」ならば、脾臓だけでなく胃腸や膵臓などを含んだ上で、消化吸収と栄養運行を全身的にコントロールする機能を意味しております。(続く)