その129 歴史を学んでも、少しも愛国心が生まれないのはなぜか?

主観と客観の説明を、もう少しします。どこか目立つところに、花が生けてあったとしましょう。沢山の人が通り過ぎる中、花を美しいと感じる人から、花の存在に全然気付かない人までいます。

主観に上(のぼ)らなければ無いのと同じであり、気付かなかった人にとって花は無かったことになります。花であれ何であれ、存在は主観で感覚されてこそ意味を持つのです。

しかし、主観で感じなくとも「そこに在る物」は確かに在ります。そこに山が在れば山が在り、川が在れば川が在ります。人の意識に関わりなく、現在そこに存在している物は現実に在るのです。それが客観的な認識です。

在ると思えば在り、無いと思えば無いのが主観、何と思おうが在る物は在り、無い物は無いのが客観というわけです。

一般的に科学的な研究を行う場合、可能な限り主観を排除し、客観を優位に働かせることで観察や実験を進めていきます。

花で例えますと、客観的な研究においては、対象となる花を綺麗と感じ過ぎてはいけません。綺麗だと主観したら、好き嫌いの感情が芽生えます。好き嫌いが起これば、その花の存在感が増してしまって、いろいろな花に対する公平性を損ね、正確な研究が出来なくなってしまうかも知れません。兎に角、好き嫌いの主観を入れることなく、あくまで物体として花を観ていかなければいけないのです。

西欧から入ってきた近代の学問は、この客観性が強く、研究に際して感情を抑える傾向を持ちました。医学の分野であれば、病理研究に力を注ぎ、「患者の心の痛み」は横に置かれてしまうという現象が起きました。患者は「病気研究のサンプル」扱いされてしまったのです。

歴史学なら、実証的研究(事実の究明)に力が入る反面、先人の生き様に対する感動や感謝が希薄になりがちです。祖国や郷土への心情も薄く、人間的に冷たくて、感情が伝わって来ないといった傾向があるのです。

いくら歴史を学んでも、少しも愛国心が生まれないのは、学び方が客観に偏向しているからでしょう。高学歴の知識人ほど、客観に偏ることで主観とのバランスが悪くなっているようです。

逆に主観が強過ぎる場合も大変で、性格的に幼稚になり易いです。俺が好きだと思ったら本物、私が正しいと感じたら正解、といった依怙贔屓(えこひいき)が生じ、その人が有力者の場合、周囲はすっかり翻弄(ほんろう)されてしまいます。

主観力が強ければ大抵直観も優れているのですが、そこに客観的な裏打ちが無ければ、ただの当てずっぽうや単なる思い込みといった部分観に陥ってしまいかねません。

そういうことから、主観と客観はバランスが大事です。山を観るなら、その霊気を主観して感激すると共に、山の組成を客観的に分析する。太陽を観るなら、その有り難さを主観して拝むと共に、核融合によって燃えている事実を客観的に知る、ということが大切です。(続く)