その139 岩を御神体としてお祭りし、御守りの石から浄化力を頂けるのはなぜか?

念子は念エネルギーのことで、物理学でいう量子と同様の「超微細な実体」であるとお考えください。人間は念子を出す主体です。祈りや強い願い、確固たる志などは、念子を発生させる元になります。あるいは、感動や感謝したとき、激しい怒りや深い悲しみを起こしたときも念子を出します。

人間ばかりではありません。動物や植物にも“感情”がある以上、微弱ながら生物としての念子を出しています。物体にも「内面的な意志」としての心があり、何らかの念子を放出しているものと思われます。そうでなければ、霊山を仰ぎ、岩を御神体としてお祭りし、御守りの石から浄化力を頂くということはあり得ません。

強い念子は、モノ(物)の核ともなります。念子と物体は一体であり、物心一如となって存在が形成されるのです。

そもそも、あらゆる存在に、内面的な意志(意味)と外面的な実体があります。それが精神(ココロ)と物質(モノ)の関係であり、元来両者は存在を内面から観るか、外面から観るかの違いに過ぎません。

精神と物質、世界の根源はどちらなのか。それは、論争の尽きない哲学上の大命題でした。根源は精神にあるとするのが唯心論、実体は物質であるとするのが唯物論です。それらを折衷した物心二元論というのもありますが、堂々巡りに陥ってしまい、結局決着に至っていません。

その理由は、精神無くして物質を説明出来ず、物質無くして精神は成立しないところにあります。そして、元々物心一体の存在を、裏観で精神を観るか、表観で物質を観るかという、どちらかに偏り、部分観で観察していたことが原因だったのです。

大宇宙ならば、ビッグバンを起こして生成発展しようという意志(サムシンググレート)が初めにありました。それが大宇宙の根源的精神です。また、やがて全宇宙に広がる質量は最初から存在しました。それが、大宇宙の根源的物質です。根源的精神と根源的物質、それらはそもそも一体です。一体なのですが、内から裏観すれば根源的精神、外から表観すれば根源的物質となるわけです。

身の回りの物も同様です。例えばプレゼントとして受けた大事な品は、相手の念子が内に籠もっている大切な物品です。客観的に見ただけでは一つの物体(物質の固まり)に過ぎなくても、相手の心が籠もれば全然違う存在となります。

プレゼント品でなく自分で購入した品の場合も、やはり物に心が籠もっています。それを発明・設計し、さらに製造・販売した人たちの念子が入っているからです。自分の思いも当然加わります。従って、やはり物心一体の存在と言うことが出来ます。兎に角、そのように精神と物質が合一して物品となっているのです。

物心一元論、これは綜學の世界観です。綜學的に観た「存在の真の姿」です。

この物心一元論を基本に、綜學社で行うワークが「モノゴコロ研修」です。こちらは方法を説明してしまうと面白くなくなるので、綜學社や綜學院で体験してください。既に述べた「原大本徹フィールドワーク」と「モノゴコロ研修」の他、綜學の内容を寸劇で表現するワークも用意しております。(続く)