その57 志士ネットワークの限界と、高杉晋作が英雄と呼ばれる理由

では、『孫子』兵勢篇の締め括りを解説しましょう。戦争は一丸となって行われる集団戦であり、個人同士のケンカとは全然違います。勝敗を決めるのは常に集団の「勢い」にあり、巧みな将軍は「勝利を勢いに求めて(個々の)兵士には求め」ません。「そこで、きっぱりと(個々の)兵士を捨てて勢いに任せ」ます。

「兵士を捨てる」という表現はただ事ではありませんが、要するに個人戦から脱出せよということです。ケンカ慣れした戦闘意欲満々な一部の兵士に頼るのではなく、部隊編成と指揮系統を整え、軍隊全体が一丸となることによって発生する「勢いに任せよ」というわけです。

そうして、その勢いを起こせる将軍が「兵士を戦わせる様子は、まるで丸太や岩石を転がり落とすときようなもの」となります。丸太や岩石は平らな上では動きませんが、坂道や崖など「不安定な状況になると直ちに動き」出します。

また、四角い材木や岩石はそのまま止まっていますが、丸ければ「直ちに転がり」出します。「そういうことから、上手に兵士を戦わせるときの勢いは、丸い岩石を深い谷に転がり落とすときのような勢い」となるのです。

幕末維新期の歴史にも、個人戦と集団戦の違いが見られます。寄せ集め的な個人戦として、各藩の攘夷志士らをネットワークした運動がありました。が、変革のきっかけにはなったものの、実際の戦争に勝利するほどの勢いには程遠いものでした。長州藩の久坂玄瑞らによる、諸藩の志士が連絡を取り合った活動などが、その個人ネットワーク運動の限界を示すことになります。

久坂は、蛤御門の変(禁門)の変で非業の死を遂げます。蛤御門の変は、必勝の戦略と準備に欠けており、後から到着予定の「編成された長州軍」の到着を待たずに攻め込むという、冷静さを欠いた戦いでした。その無謀さを誰よりもよく知っていたのが久坂であり、必死に止めようとしましたが叶いません。全国に巻き起こっている攘夷運動に、急進派がすっかり煽(あお)られてしまったのも原因でした。

久坂が亡くなった後で活躍をはじめるのが、同じ長州藩士の高杉晋作です。晋作は、武士による正規軍とは別の奇兵隊(諸隊)を組織しておりました。やがて下関の功山寺で決起した晋作は、諸隊を生かしつつ進撃し、藩論を討幕に統一させ、長州一藩を「大きな丸い岩石」に変えたのでした。

当時の藩は一つの国でした。そこには整えられた組織が存在し、人力と生産力、資金力と武力があります。その藩が持つ力を生かすことで、幕府軍を打ち破る「勢い」を起こしたところに晋作の英雄たる所以(ゆえん)があったのです。(続く)