No.4 人物は「あそびのある余裕」を持っている

満杯のコップや、伸びきったゴムでは困る

老子が理想とする人物は、必ず「あそびのある余裕」というものを持っています。茫洋(ぼうよう)としていて掴みどころがない感じでありながら、実は社会と人間をしっかり捉えているというふうです。

この茫洋の反対は、狭量にして緊張した状態です。自分の力を精一杯生かすのはいいことですが、肩肘張って背伸びした様子では、余裕がないまま堅苦しくなって、何事も長続きしません。満杯のコップを急いで運ぶようなもので、動く度に零(こぼ)れてしまいます。あるいは、伸びきったゴム紐のようなもので、元に戻る弾力性が失われていくばかりです。

ちょっと見たときには完成しているようでありながら、その実(じつ)まだ大成に到っていないという場合、大抵(たいてい)この満杯のコップや、伸びきったゴム紐のような状態になっていると考えられます。無理し過ぎて、伸び代(のびしろ)が、もう殆ど残っていない様子とも言えます。

どこまで大きくなるのか、予想がつかないくらいであれ

そうではなく、まだこれから成長していく可能性に満ちているのが「大成」であり、いくらでも湧き出る泉のような生成力を持っているのが「大盈(たいえい)」です。

人間も同じで、スポーツ選手なら今はまだ荒削りでいいから、さらに強くなっていく伸び代が欲しいです。諸芸にあっても、小さく完成しているのではなく、磨けばどこまでも光り輝く、原石のような可能性が求められます。特にプロとなるには、魅力となる華(はな)や、人としての器自体に、伸び代が必要となります。

とりわけ若者には、これから先どこまで大きくなるのか予想がつかない、もうこの辺で終わるだろうという天井を予感させない、というくらいの大きさを持って欲しいのです。そういう願いを込めて、老子は大成・大盈と言ったのです。小成ではなく大成、小盈ではなく大盈を目標とさせるところに、道家(老荘思想)の理想があるというわけです。

相手の成長度合いをよく見て、負荷をかけねばならない

でも、そうやって余裕を大事にしてばかりいると、「適当でいいや」という気分になって、却って力の出し惜しみが起こり、限界を突破出来ないのではないか、という心配が出てきそうです。あるいは「もうこれ以上は本当に無理」という、限界線を超えてこそ人間は成長するものであり、はじめから欠損や不足でいいとしてしまうのは問題だ、といった批判も出てくることでしょう。

それについて、筆者はこう考えています。「限界を超えて頑張れ」と教える意味は、伸び代自体を伸ばすためにある。伸び代であるところの器を大きくしながら、同時に実力を高めるために、人は限界を超えて挑戦せねばならないと。

その際、本人の現在の覚悟や資質を無視したまま、無理矢理努力を強制するのは感心しません。本人の能力を明らかに超えたところまで行動を強制すると、単に潰すだけとなりかねないからです。指導者は、相手の成長度合いをよく見て、適切な負荷をかけてあげねばならないのです。(続く)