No.7 アナウンサーと経営者、参列者を感動させたのはどちら?

使うほど、味わうほど、道具と人が一体化していく

大直に生きれば、我が道を行くのですから、どうしても孤独になりがちです。しかし、適度な孤独癖は、指導者に是非とも欲しい性格の一つです。

原点に基づき、大局を掴みながら決断を下さなければならないトップにとって、内省の時間は、どうしても生活の中に必要だからです。誘われたら何でも参加するというのは、進むべき方向が不明瞭な若いときならともかく、中高年になって取る姿勢ではないと言えましょう。

どの会を優先し、何を大切にするか。その判断基準が養われていないようでは、指導者として話になりません。まさに「四十にして惑わず」(論語・為政第二)の人生軸が求められます。

『老子』の続きを述べます。「精巧なものは稚拙なように見える」というのは、本当に巧みなものほど、拙いと感じられるところを持っているものだという意味です。例えば、茶道で用いる高級な茶碗は、素人には稚拙に見えたりします。「一体この器の、どこに価値があるのだろう」と首を傾げてしまうのです。

でも、その拙いと感じさせるところが、茶碗の伸び代(のびしろ)になっております。茶碗を手にする人、扱う人が完成させていく余地です。

即ち、使うほど、味わうほど、道具と人が一体化していく。そういう可能性を織り込んでいくのが、「大巧」のワザなのです。未完成の完成であるとも言えます。

心がこもっている分、口下手になってしまう

「雄弁は口下手に聞こえる」。これは、真の弁舌は、訥弁であるかのようだという意味です。弁舌の目的は、相手に自分の思いを伝えるところにあります。流暢(りゅうちょう)で聞き易い話し方が好まれることは当然ですが、そこに気持ちが入っていないと、ただ音波が伝わっただけで終わってしまいます。

以前、ある葬儀で喪主挨拶を二人が務められたことがあります。一人は故人の孫、もう一人は次男でした。本来喪主になるはずの長男が亡くなっていたので、直系の孫と、それに加えて次男が立ったのです。

孫はアナウンサーもしているという人で、とても綺麗な声で、立て板に水の如く流暢に話しました。次男は経営者ですが、人前で話すのは苦手らしく、涙声で辿々(たどたど)しく話していました。

さて、どちらに感動したかというと、明らかに後者でした。孫はさして悲しそうではなく、淡々と話して役目は終わりです。だから全然心に残りません。それに対して次男は、父親の死を悲しみ、慟哭しつつ、やっとの思いで挨拶を終えたのでした。参列者は皆、引き込まれていました。

そういう感動を起こす弁舌を「大弁」と言います。大弁は、心がこもっている分、却って口下手(訥弁)になってしまうというわけです。そして、これら大直と大功と大弁に、念子が入ってくる余地があるのです。(続く)