No.8 素直さや無我から、念子を入れる余裕や器が生まれる

自分を通して何かが表現されていく

大直と大功と大弁。これらは、飾らない素直な生き方の表現に他なりません。我を張ったり、格好良くやろうとしたり、人よりも目立とうとしたりしない生き様です。そういう状態を「無我」と言います。

その素直さや無我から、念子を入れる余裕、器というものが生まれてきます。無私・無欲、小欲・寡欲から来るところの空虚さが、器量の基となるのです。

絵や書なら、本物になるほど自分が書いているようでいて、単なる自分が書いているものではなくなります。素直なときの自分に、他の絵師や書家をはじめとする様々な念子が入ってきて、自分を通して作品が創造的に表現されていくのです。

焼き物や刀鍛冶などの伝統的技術、能や歌舞伎、茶道や華道などの伝統芸能も同様です。何代目かを名乗るこれらの世界では、先人の念子を受け継ぐことによって基本が継承されてまいります。

技術や能力ばかりでなく、念子は、人の生き方そのものにも強い影響を与えます。歴史上の人物や志士たちの念子を吸収することで、先人に負けない大直な生き様を貫いていけることになります。そこに、文化や歴史に学ぶ意義というものがあるのです。

自分の念子を込めることで、自分だけの一品に仕上げていく

そうして、自分に念子を入れる器というものが生まれますと、作ったり書いたりした作品そのものにも余裕が出来てきます。絵や書なら、鑑賞者が完成させていく余裕であり、道具なら、使用者が完成させていく余裕です。

即ち、作品を味わう人がしみじみ堪能し、その鑑賞者の念子が入っていく余地が、作品自体に生まれているのです。それがあれば、道具を使う人が道具を愛用することで、その人の念子がいっそう道具に注がれていくことになります。作る人の念子ばかりでなく、見る人や使う人の念子が入っていくのです。

そういうことから、作る人は、見る人・使う人の念子が加わることを予想して製作し、見る人・使う人は、自分の念子を込めることで自分だけの一品に仕上げていくことが肝腎になります。そこに、本物への道があるというわけです。

そうであれば、本物の完成とは、単に綺麗に仕上げれば終わりというものではありません。未完成の伸び代(のびしろ)を残すことによって、次第に完成させていける余地のあるものが本物ということになります。

それが講義なら、話を聴く人が講義を完成させていきます。歌なら、聴く人が歌を大成させていきます。自分だけの忘れられない講義、思い出の歌となる所以(ゆえん)です。そういうところに、大功や大弁の真意があると推察する次第です。(続く)