No.17 逞しい行動力と、大局と核心を掴んでしまう洞察力

自分の目で西洋の情勢を確かめようとした吉田松陰

幕末に高杉晋作や伊藤博文らを育てた、松下村塾という私塾がありました。この塾を主宰した吉田松陰先生は、数え年30歳(満29歳)の若さで処刑されます(安政の大獄)。短い生涯で終わりましたが、とてもよく動いた人生でした。

20代はじめの頃、九州や東北を回り、旅からいろいろ学びます。20代半ばでは、大胆にもロシア艦に乗り込もうとして長崎に行ったり、ペリーの黒船(アメリカ)を追いかけて下田に向かったりします。結局、長崎ではロシア艦は出ていった後であり、下田に停泊中のペリーには密航を断られてしまい、海外に渡ることは出来ませんでした。でも、日本を侵略するかも知れない敵国の地に行って、その情勢を自分の目で探ろうとした情熱には、この上なく熱いものがありました。

松陰先生の、その逞しい行動力には目を見張るものがあります。と同時に、自分の居場所から出られなくても、世界や日本を大局的に掴んでしまう豊かな洞察力を持っていました。それが、理想や信念、志から出てくるものであったことは言うまでもありません。

意識が広大でいられるのは学問の力

ペリーの黒船に乗り込もうとして失敗し、亡命未遂の罪を問われた松陰先生は、野山獄という長州藩の牢獄に入ります。そこに1年数ヶ月入牢し、許されて牢を出てからは、実家の小さな部屋で謹慎の身となります。

そのときの松陰先生の心境が、『講孟箚記(さっき)』という著書に記されています。狭い部屋の中に居ても、気持ちは世界を飲み込んでいると豪語しました。それを紹介しましょう。

「私は一間の部屋に幽閉されているが、日夜世界五大州を飲み込んでやろうと謀っている。人は誰でも私の狂気を笑うが、それは私の居る場所の狭さが、言うことの大きさに釣り合っていないからだ。

しかし、我が国には海外に出てはいけない決まりがあるのだから、国外には少しも出ることが出来ない。自分の目で見られるのは日本の中だけのことであり、狭さにおいては皆同じではないか。

私は一人、部屋の中から堂々と睨み(にらみ)を利かし、歴史を達観し、万国を通視している。これによって、自然に見識が広大になっていく。

思うに、私と他人との間に知能の差はない。ただ精神の置き所に、広狭があるのみだ。私が狭い部屋に閉じこもっていながら、意識が広大でいられるのは学問の力なのである。」

まさに「戸を出なくても天下を知り、窓から窺わなくても天の動きを見る」という老子の教えを体現していたのが松陰先生です。結局、動かなくても天下を知る者であるから、いざ動いたときに大局や核心が掴めるというわけです。それが、「出て行かなくても知ることが出来、見なくても明らかで、為さなくても成る」という道家の聖人の姿なのでしょう。(続く)