No.25 一緒にいても面白くない人間

知識が思考を縛る

本を読んだり話を聞いたりして、勉強すれば知識が増えます。知識が広がること自体はいいことですが、断片的な言葉が頭の中に増えますと、物事を部分的にしか捉えられなくなります。いわゆる秀才の中には、融通の利かない考え方に囚われ、直感に欠けて鈍感になっている者がいます。その原因は、学んだ知識が思考を縛ってしまい、柔軟な見方が出来なくなり、全体的な観察力に乏しくなっているところにあります。

そもそも、知識の基本は言葉にあります。言葉には物事を定義する働きがあり、箸なら食べ物を口に運ぶ道具、御飯茶碗なら御飯を盛る食器というふうに、名称によって何に使われる物なのかがはっきりしてきます。

ところが、その定義に囚われますと、箸は箸としてしか使えず、御飯茶碗は御飯茶碗にしか用いられなくなってしまいます。尖った箸なら「千枚通し」の代わりに紙に穴を開けることが出来るし、御飯茶碗なら湯飲みの代わりにお茶を注いで飲むことが可能なのですが、そういう応用が利かなくなるのです。知識が思考を縛るというのは、そのように定義通りにしか物を生かせなくなっている様子を言うわけです。

知識が感動を妨げる

また、知識の豊富な人は、分析的な思考に長けてくる分、感動に乏しくなる傾向があります。例えば哲学・思想を知識としてのみ学んでいるようだと、仁や義の精神に感動して、自分の生き方に置き換えていくということが出来難くなります。そういうことは西洋ではキリスト教で似たようなことを言っているとか、その見方ならギリシア哲学でも説明されているというふうに、つい客観的に分析するほうに頭を使ってしまうのです。

何かを見たり、何かに触れたりしたとき、それが美しいとか素晴らしいなどと、素直に感動することは本当に大切なことです。ところが、知識が邪魔をして感激する力に乏しくなりますと、一緒にいても面白くない人間になってしまいます。そういう人が相手だと、話せば話すほど心が冷えてしまうのです。

「学問を為せば日に日に(知識が)益していく」というのは、そういう部分観と客観に囚われてしまったときの弊害を言おうとした文言です。そして、もしもそういう状態に陥っているなら、無為の道を為すことで、日に日に余分なものを捨てていけと老子は諭しました。(続く)