No.31 過去の事実は変えられないが、過去の意味は変えられる

林のおやっさんだけは普通に接してくれた

「清濁併せ呑む」という言葉があります。人間関係ならば、真面目な人から過去に問題を起こした人まで何でもござれ。善も悪も、純粋なものも不純なものも、どちらも併せて一緒に飲み込んでしまうという、懐の大きさを表した言葉です。

世間が善とするものばかりでなく、不善であるとしているものに対しても、内に秘めた善性を見ようとする。そうすると善性が現れてきて、結果として善ばかりを得ることが出来る。それが「善であるものは善であるとし、不善であるものも善とする。それで善を得ることが出来る」という言葉の意味です。

筆者の子供の友だちに、いわゆる不良少年がいました。しばしば問題を起こすから、大人たちは誰も彼を相手にしませんでした。しかし、その子は家庭環境が問題で不良になっていただけで、根は素直な少年であることが一目で分かりました。それで、筆者はごく普通に接しました。部屋に入れて話を聞いてやり、格闘技に興味があるというので、武道の稽古に連れていったこともありました。

やがて彼は成人してから、ふらっと遊びに来ました。懐かしくて来たのでしょう。「子供の頃、どこに行っても変な目で見られてきたのに、林のおやっさんだけは普通に接してくれた」と語ります。その後も人生いろいろあったようですが、やっと真面目に働き出したとのことで安心しました。

暴れ者には普通にはない魅力がある

実は、筆者の講座の受講生には、昔不良少年だった者がかなりいます。その多くが淋しい生い立ちを持ち、孤独な人生を歩んできています。

筆者は、ごく普通の人生を送ってきた者よりも、やんちゃな経歴を持つ者のほうが好きなのです。優等生は優等生でいいが、何をしでかすか分からないような暴れ者には、普通にはない魅力があります。感心しながら体験談を聞いてやっているうちに、相手も気を許して近寄ってくるようになります。

話を聞きながら、基本的に相手の過去を裁いたり、間違った行為について悪く言ったりしません。こちらに喋ってくれること自体が善性の現れなのですから、そのときは心に溜まった淋しさに耳を傾けてやるだけです。

そうして聞いている筆者自身、聖人でも何でもありません。振り返ってみれば、良いことに違いないと考えてしたことが裏目に出てみたり、人を救いたいと思ってやったことが別の人を傷付けてみたり。失敗の多い人生であり、悔恨を抱えていることでは、不良少年たちとも同じ仲間なのです。

相手を悪人と決めつけない。だから善性を引き出せる

「過去の事実は変えられないが、過去の意味は変えられる」。筆者はこれを、20年近く前から唱えてきました。過去に何か犯した罪があったとしても、今とこれからを前向きに生きることで、過去の意味はいくらでも変えられるという意味です。

いろいろな人生を見ると分かることですが、誰にも迷惑を掛けなかった者よりも、いろいろ問題を起こしてきた者のほうが、使命に気付いたときにずっと大きな働きを示すようになります。何も為すことなく平凡に生きてきた者では、到底成し得ない業績を上げる可能性を秘めているのです。

その場合、その者を悪人と決めつけないで、本来持っていた善性を引き出してくれる、器のある導き役が必要になるということを申し添えておきます。

続いて老子は「信であるものは信であるとし、不信であるものも信とする。それで信を得ることが出来る」と語ります。「信と不信」も「善と不善」同様に、こちらの見方次第ということになります。

世間が信じていないものの中に、本当は信じるべき真実があるのかも知れません。初めから否定したら、それで終わりです。不信に見えるものの中にある信を見出していけば、全てに信がつながっていくということを老子は言いたかったのではないでしょうか。(続く)