No.64 未来へ陰徳を積む生き方

「仁」にもレベルがある

儒家思想における一番のキーワードは、何と言っても「仁」です。仁は、人を表す「イ」と「二」が組み合わさった会意文字で、人が二人いることを意味しています。二人というのは自分と相手のことで、「明確な相手のために自分が何を出来るか」を問い掛けている漢字が仁なのです。

通常「仁」の意味は、慈しむことや思い遣りとされていますが、問題は愛情を誰が発するのか、真心をどこの誰に尽くすのかにあります。この「誰が」と「誰に」に対する答えがはっきりせず、我が身を遠くに置いたまま、観念的な愛を語っているだけでは空理空論となります。そうではなく、自分が主体となって、愛する人や大切な人を具体的に助けていくのが仁の意味というわけです。

老子は、この仁にもレベルがあると述べました。思い遣りの心で人を救済してはいるものの、「俺が救ってやった」とか「私が助けてやった」とかいうような、「俺が、俺が」という自意識が目立つ場合は「仁のレベル」が低いことになります。

勿論(もちろん)、誰かのために役立とうとして頑張っているのは、とても素晴らしいことです。困るのは、好意を分かってもらいという気持ちが前に出過ぎているときです。作為が強くなって、いわゆるありがた迷惑になりかねません。

上仁には「これ見よがし」なところが無い

レベルの高い仁、老子はそれを「上仁」と呼び、「何かを為すが為にすることが無い」状態であると説明しました。相手のために何かを為すものの、意図的なわざとらしさが無いという意味です。

相手のため一所懸命尽力するが、助けたことを覚らせず、素知らぬ顔でいるのがそれです。こちらの努力を「これ見よがし」に分からせようとしないのです。

そのお手本は、天地自然にあるとするのが老子の教えです。万物を養いながら何も見返りを求めない天地自然の姿こそ、道家の聖人の理想像なのです。

そういう陰徳は、直ちに感謝されることがありません。ずっと後になってから支援の事実が明らかになって、大いに驚かれることもあります。あるいは、一生気付かれないことだってあり得ます。何だか淋しい生き方だなと思われるかも知れませんが、その押し付けでない真心に粋(いき、すい)の精神があり、やせ我慢に通じる美意識があります。

そして、上仁であれば相手の荒木(樸)を損ねることがなく、相手の天分や天性を殺してしまうような作為がありません。世話を焼き過ぎて子供をダメにしてしまうとか、細かく指示し過ぎて部下を自立させられないといったことが無いのです。

概ねこれらの事柄を極めていけば、「上仁」となります。将来の日本と世界を担う人物の育成に励むことなども「未来への陰徳」であり、上仁に属す生き方ということになるでしょう。(続く)