No.63 そこに居てくれるだけで救われるという人間力

天徳の道家、人徳の儒家

「先天の徳」は、老子の言う「樸」、つまり荒木にあたるものです。私たちが元々持っている個性や天性、天分がその内容で、これが道家(老子などの教え)の徳の意味となります。

一方「後天の徳」は、学問や修養、役立ちの積み重ねなどによって磨かれた人徳のことです。こちらは道徳的人間性を意味し、儒家(孔子などの教え)が重んずる徳となります。

同じ「徳」という漢字を使っていても、道家と儒家とでは、天徳と人徳という違いがあるのです。しかし、先天の徳を生かすことで後天の徳が養われるということからすれば、決して別物ではありません。筆者は、両者の融合したところに徳の本義があると考えています。

「徳」の漢字について、もう少し解説を加えましょう。徳の左半分(偏)が行動を示していることは、先に述べました。では右半分(旁)はどうかというと、「チョク、トク」という読みを表しています。

半分が意味、半分が読みという成り立ちであり、こういう漢字を形成文字と言います。ただし、右半分の旁(つくり)にも意味があるという説があります(そうであれば会意文字)。徳の旁は「直+心」で「直き心」を意味しており、真っ直ぐな心で行動するのが徳に基づいた生き方という見解です。

偽りの自分を作って人格者ぶるのも作為

次に、「徳の下なるものは、徳を失うまいとする。だから徳で無くなる」という言葉について考察しましょう。これは、無理して徳の維持に努めようとする、儒家のあり方への批判だと思われます。

立派な人徳者に見られたい。小人(つまらない人)と思われたら辛い。そういう心理でいますと、つい偽りの自分を作ってしまうことになります。力も無いのに大人(たいじん)であるかのように振る舞い、無理して人格者ぶるのです。
こういうことも、人為や作為の一つに入ります。

そして、人徳者の“地位”を失いたくないと焦る内に、却って徳を失っていくのです。そうなる理由は「こうあらねばならない」という頑な(かたくな)な気持ちが、天性や天分を曇らせてしまうところにあるのです。

その人の存在自体が回りを元気にしていく

こうして見ると、徳は(天地自然の原理である)道に近いのですが、レベルの低い徳の場合は、作為の一種に含まれてしまうということになります。「徳の上なるものは、無為にして為にすることが無い。徳の下なるものは、何かを為して為にするところが有る」という言葉がそれを表しています。

「為にする」というのは、わざとらしく意図的にする行為のことです。例えば、御為ごかしの親切がそれです。あれこれ世話を焼きながら「優しくていい人に見られたい」、さらに「相手に取り入りたい」という下心があるとするならば、はっきりした作為となります。相手を騙そうとか陥れようとかいう悪意が無い場合でも、動きに度を越した無理が感じられるときは、それも人為の現れということになるのでしょう。

究極は、ただそこに居てくれるだけで回りが元気になり、救われるという人間力にあります。その人の存在自体が、相手を癒し救っていくという、いわばオーラの輝いた状態です。そして、その人がいなくなると、火が消えたように淋しくなってしまいます。それが、老子の言う「上徳」なのです。

実際には、全然何もせず、一言も喋らず、ただ座っているだけで上手くいくということはありませんが、道家の聖人に近付くほど、そういう雰囲気が醸し出されてまいります。(続く)