No.62 徳が下がると、仁や義が唱えられるようになる

徳・仁・義・礼の順で下がっていく

何も為さないのに、何でも為していく。爪先立った欲が無くて静かでいるから、天下は自然に定まることになる。そういう内容を前章で学びました。続く第三十八章には、「徳」「仁」「義」「礼」などの中国思想のキーワードによって、無為自然の「道」の尊さが説かれています。

《老子・第三十八章》
「徳の上なるものは、徳であろうとしない。だから徳となる。
徳の下なるものは、徳を失うまいとする。だから徳で無くなる。

徳の上なるものは、無為にして為にすることが無い。
徳の下なるものは、何かを為して為にするところが有る。

仁の上なるものは、何かを為すが為にすることが無い。
義の上なるものは、何かを為して為にするところが有る。
礼の上なるものは、何かを為し、これに応ずるところが無ければ則ち臂(ひじ)を攘(かか)げて相手を引こうとする。

だから、(無為自然の)道を失った後に徳となり、徳を失った後に仁となり、仁を失った後に義となり、義を失った後に礼となるのだ。

礼は忠信が薄くなってからのものであり、乱の始まりである。
前もっての知識(智)は、(儒家の)道にとっては華であるとしても愚の始めだ。

こういうことから大丈夫たる者は、厚きに身を置いて薄きに居らず、実に身を置いて華に居ない。故に彼(仁義礼智)を去りて此(道、上徳)を取るのである。」

※原文のキーワード
徳の上なるもの…「上徳」、徳であろうとしない…「不徳」、
徳の下なるもの…「下徳」、徳を失うまいとする…「不失徳」、
為にするところがある…「有以為」、仁の上なるもの…「上仁」、
義の上なるもの…「上義」、礼の上なるもの…「上礼」、
応ずるところが無い…「莫之応」、相手…「之」、
引く…「※手偏+乃の字だが、ワードに無い」、乱の始まり…「乱之首」、
前もっての知識…「前識」、身を置く…「処」

徳とは人間力のこと

誰もが無為自然の「道」によって生きている世の中であれば、やれ徳だの、仁だの、義だのと言って戒める必要がありません。道が失われるから、それを取り戻そうとして徳が語られるようになり、徳が下がってくると仁や義が唱えられてくるという老子の見解が本章の主題です。

「徳の上なるもの」、すなわち「上徳」は「道」に等しいレベルにあります。
上徳は無為自然そのままの状態ですから、敢えて「徳であろう」として無理したり、実力がありそうに構えたりすることがありません。でも面白いもので、その自然体が結局、徳を導いてしまうのです。

人間力と言いましたが、「徳」の意味として一番相応しいのは、この人間力という言葉ではないかと思います。徳には「先天の徳」と「後天の徳」があります。前者は、その人に与えられた天分や天性、個性のことです。それが磨かれますと、人間性や品格が高まって「後天の徳」になります。

徳(本来は?)は、偏の「彳」に意味があります。彳は人が沢山行き交う往来(道路)のことで、行動を表しています。行動することで人間が練れてまいりますと、「彼は徳を積んだな」、「しばらく会わない内に徳が高まったようだ」などと言われることになるのです。(続く)