No.61 幸福の基準は自分にある

少し落ち着くと、たちまち志を失ってしまう

人間の気持ちには、本当にあてにならないところがあります。名利や作為の欲望を超え、無為自然の生き方に一度は目覚めたとしても、少し落ち着くとたちまち志を失ってしまうことがあります。飽きやすく、冷めやすく、気が付けば目の前の欲得に心を奪われ、小さくまとまってしまう自分がいるのです。

そこで老子は、一旦は「化育」されて達観の境地に到っても、「なお作為の欲望を起こすようであれば、私はこれを鎮めるのに無名の樸をもってする」と語りました。「樸」とは、山から切り出されたばかりの荒木のことです。まだ何に用いられるか不明だから、特定の名前が付いていません。それで「無名の樸」と呼びました。

この無名の樸の、質朴で純粋なエネルギーに影響されれば、今一度無欲になることが出来ると老子は教えました。大欲・公欲に生きている大人物の側にいれば、自ずと感化されていくのが、その例の一つです。そして「欲しないで静か」にいられるようになれば、「天下は自然に定まる」ようになると述べました。

刺激的な情報が氾濫し、刹那的な欲望に追われる毎日

都市文明を興してからの人類社会が、如何に虚飾や虚偽に満ちていることか。
さほど生かすことのない無駄な知識や、心のこもらない形式的な言葉が世に溢れています。気の抜けた形だけの礼儀に、辟易(へきえき)させられることもあります。

そうして我々は、刺激的な情報が氾濫し、刹那的な欲望に追われる毎日を過ごすことになります。社会そのものが、一時の快楽を求め、物欲文明の巷(ちまた)を彷徨(さまよ)っているのです。

そんな中に生きておりますと、たちまち私利私欲が頭を擡(もた)げてくることになります。他人と比較しては焦り、自分が進むべき理想の道を捨ててしまいかねません。やがて大義を忘れ、気が付けば志を見失い、「人為の世界」すなわち「俺が俺が」の爪先立った世界に逆戻りしてしまうのです。

せっかく「化育されても、なお作為の欲望を起こす」という言葉が、そのことを示しています。老子は、そのときこそ「無名の樸」で無為を取り戻しなさいと諭します。無名の樸という荒木に帰れば、もう一度無欲となれるであろうと。

天分を輝かせること自体が幸せの根源

荒木とは、自分にとっての原点に他なりません。本来自分が持っていた、天性や天分が荒木です。これを損ねることなく生かしていけば、天分が輝き、その喜びが幸せの根源となります。天分が幸福の元となれば、幸福の基準が自分にあることに気付きます。あれこれ人と比較して、僻(ひが)んだり落ち込んだりということが少なくなるでしょう。

これこそ、国民をしなやかにし、しかも強くする基本であると老子は考えました。どうでもいい表面的な欲望から離れ、作為や欲望を持たない天地自然という「道」に、無心に我が身を委(ゆだ)ねる生き方の勧めです。それによって、無駄に争ったり奪い合ったりすることのない、寡欲(かよく)な生活が導かれます。そうして「静かであれば、天下は自然に定まる」ことになるというわけです。(続く)