No.59 何も為さないのに、何でも為してしまう

必要なときに、必要な人や物や機会に恵まれてしまう

人生の達人と呼ばれる人がいます。特に意図しなくても、物事が上手く運ぶ人のことです。彼は、「これをしなければ」「あれをやらなければ」という作為の意志を超えて生きています。肩肘張ることなく、ただ「あるがまま」に生きているだけなのですが、必要なときに必要な人や物や機会に恵まれ、概ね問題なく物事が進んでいきます。

勿論、全く何も考えていないわけではありません。自分の役割とか使命とかを考えおりますし、志を立てて日々努力しています。でも、重心が上がった状態で動いていることがありません。燃えているが同時に静かであり、「俺が俺が」という自意識が薄いのです。

そういう人は、たとえ何かで行き詰ることがあっても、助け手がちゃんと現れてくれます。一時的に困ることがあっても、苦しみから逃げないで「今出来ること」に取り組んでいる内に、苦難から生き甲斐が見出され、気が付いたら前よりも人生が好転していたりするのです。

まさに自然体に生きており、意識し過ぎた作為が無いから、却って何でも為してしまうことになります。それでは、「無為にして為さざるは無し」という有名な言葉によって、自然体の生き方を教えている第三十七章を学んでまいりましょう。

天地自然の原理を、人間世界に置き換えて生かす

《老子・第三十七章》
「(天地自然の原理である)道は、常に何も為さないでいながら、為さない事が無い。支配者がもしよくこれを守れば、万物はまさに自然に化育されていく。

化育されても、なお作為の欲望を起こすようであれば、私はこれを鎮めるのに無名の樸をもってする。無名の樸であれば、またまさに無欲となるだろう。
欲しないで静かであれば、天下は自然に定まるのだ。」

※原文のキーワード
何も為さない…「無為」、為さない事が無い…「無不為」、支配者…「侯王」、自然に化育…「自化」、作為の欲望を起こす…「欲作」、自ずから定まる…「自定」

何も為さないが何でも為してしまうと聞いて、「うん、そうだ。その通り」と肯定出来る人なんて、まずいないでしょう。為さなければ何も起こらず、起こしたければ為さなければならないのが常識だからです。じっと待っていて成果を得られるなどということは、「待ち惚け」の寓話でしかあり得ないことでしょう。

老子が言いたいのは、そういう一般的な話ではなく、もっと奥にある達人の生き方についてです。

大自然は、あるがままに活動しています。特別誰かを助けようとか、何かを守ろうとかいう意図がありません。それでいて、一切の存在を育んでしまう造化の働きがあります。そこに老子は感動し、人間も斯くありたいと思ったのでしょう。老子の教えの基本は、天地自然の原理に学びつつ、それを人間世界に置き換えて生かすところにあるわけです。(続く)