No.65 感謝したり感激したりしてくれないと怒り出す…

義に生きる人には硬いイメージがある

次に「義の上なるものは、何かを為して為にするところが有る」と続きます。
上のレベルであっても義に生きる人には、何かを為したときに意図的なわざとらしさが出てしまうというのです。これは、正義漢の注意点ですね。

「義」は「筋を通す」という意味の形声文字です。この漢字の上半分は「羊」で、群れを成して進ことから「整っている、美しい」という意味があり、下半分の「我」はギ(ガ→ギ)の音(読み)を表しています。

筋を通す意味があることから、正義や大義、義憤、義人、義士などの熟語が出来ました。これらの言葉には、意識して筋を通すという硬いイメージがあります。何事も筋を通し、斯くあらねばならないという美意識で生きているのですから、「為にするところが有る」という老子の説明が頷けます。

「義の上」の人にとって、“美しく見られるかどうか”が態度の基準であり、どうしても行動が意図的で尊大になりがちです。しかし、あくまでそれは自分を律する上での意識であり、相手に何らかの動きを要求しているわけではありません。

「御礼の言葉」を言わせたいのは分かるが…

ところが礼の段階になりますと、「礼の上」のレベルの人でもあっても、相手の反応が気になって仕方無いようになります。何かをしてあげたとき、相手が感謝したり感激したりしてくれないと酷くがっかりします。そして、無理矢理「御礼の言葉」を言わせようと迫ってきたり、それまでの親切そうな笑顔から一転して急に怒り出したりもします。

それが「礼の上なるものは、何かを為し、これに応ずるところが無ければ則ち臂(ひじ)を攘(かか)げて相手を引こうとする」という言葉の意味です。
「臂を攘げる」というのは、肘を張って相手を引くなり押すなりしている動作であり、とにかく自分の意図した通りに反応させようとしている状態のことです。

「礼」の本字は「禮」で、敬う心が豊かであることを表している会意文字です。
偏の「示」は祭壇に供えられた肉から血が滴り落ちている様子を示しており、旁の「豊」はそれが豊富な状態を意味しています。偏と旁を合わせて、敬う気持ちが豊かであることを表現している漢字が「禮=礼」なのです。

則ち、「礼とは敬う心を形に示すことである」という定義が成り立ちます。
この礼があってこそ、人間関係は円滑に保たれます。こうすればこういう思いが伝わるという文化が生ずるからです。礼が通じるところまでが自分の属する文化圏であり、その外は異文化の世界ということになるのです。(続く)