No.66 作為のない純朴な応対に癒される

客ではなく、金に頭を下げている

そのように礼は人間関係の潤滑油として大切なものですが、心のこもらない形式的な礼や、本心に反した意図的な礼になると空しいばかりとなります。
笑顔やお辞儀は、心がこもっていてこそ輝きます。

客に対してではなく、お金や地位に対して頭を下げている。そういう礼が実に多いものです。儲けになるなら相手は誰でも構わないわけで、相手の本質をきちんと見ていません。金の切れ目が縁の切れ目であり、得にならなければそれで終わりというわけです。

また、サプライズとしての礼も、作為に過ぎますとあまり頂けません。
サプライズというものは、仕掛けるほうは驚いて貰わないとつまらないし、受ける側は驚かせて貰えないと淋しくなります。これを何回も続けているとマンネリ化し、無理矢理驚かせようという行為も、驚いてやらないといかんという気負いも、双方にとって精神的な負担となるだけでしょう。

昔の子供たちは、家に来る客に興味を示していた

筆者は、素朴な「荒木」の接待がいいと思っています。昔の田舎には、それがありました。田舎の子供たちは、家にやって来る客に興味津々でした。はしゃぎながら客を出迎える子供たちの、その作為のない純朴な応対に大いに癒されるものがありました。

子供たちは家に客が来るということ自体を面白がり、客間に通されたマレビトを見たくて襖(ふすま)の隙間から覗き見します。客は、そういう子供たちの様子に、心地よい温かさを感じたものでした。客が持参する菓子や、ひょっとしたら貰えるかも知れない小遣いが楽しみということもあったでしょうが、それ以前に客の来訪そのものを、普段と違う我が家の雰囲気と共に楽しんでいたのです。

いつの間にかこの国の子供たちは、家に来る客に興味を示さなくなりました。
客に挨拶出来ればまだいいほうで、何の反応も示さないことが多くなりました。
テレビやゲームに興じることのほうが楽しいのか、あるいは勉強や宿題に忙しいのか、それとも人とふれ合うことが苦手になったのか、原因はいろいろあるでしょう。大人たち自身が客の来訪を面倒臭がるようになったということも、その一因だと思われます。

眼がきらきらし、とびっきり純朴な笑顔で迎えてくれた昔の子供たちが、本当に懐かしいです。もしもそれと同様の笑顔で応対してくれるサービスに出会えたなら、それが最高のサプライズということになるのではないしょうか。(続く)