No.69 中途半端な学びは「言葉の武器」を手に入れるだけ

【修正】「その62」の「前もっての知識(智)は、(儒家の)道にとっては華であるとしても愚の始めだ」という文章を以下のように修正します。
「前もっての意識は、(儒家の)道にとっては華であるとしても愚の始めだ」。
「知識(智)」を「意識」に変えました。

これくらいしてくれてもいいのに…という期待

威厳を尊ぶ儒家の生き方は、斯くありたい、こうあらねばならぬという予め(あらかじめ)の意識が前に出がちです。それは、自分ばかりでなく相手にも求めてしまうもので、こうしてくれるはず、これくらいしてくれてもいいのにという期待感が生じます。この「前もっての意識」を「前識」といい、儒家に学んだ人によく見られる思考パターンの一つとなります。

前識は、上手く働けば思い遣りの重ね合いとなり、人間関係が円満、円滑になります。自分自身がこうありたいと願って行動することが相手の期待に応えることになり、して欲しいと思うときに相手はちゃんと動いてくれている。
そういう関係であれば、まさに“仕合わせ”となり、先へ先へと意識が噛み合うことほど幸せなことはありません。

そのことを老子は、「前もっての意識は、(儒家の)道にとっては華である」と言いました。儒家思想による教えの精華という意味です。

虚飾、虚礼としての仁義礼智を去れ

しかし、こうあるべきだという高い基準で求め合ったものの、それが外れてしまい、互いに裁き合うようになってしまうと大変です。双方の期待が強くすれ違い、普通の関係以上に激しい叩き合いになる恐れがあります。儒家思想を知らない頃のほうが、まだ許し合えたのに、なまじ知ったために溝が深まったという不安定な事態に陥ってしまいかねないのです。

中途半端な倫理道徳の学びは、相手を責めるための「言葉の武器」を手に入れたようなものです。それによって、却って家庭や職場に不和が生じてしまうことが実際にあると聞きます。そういう自己本位な現象が、老子の言う「愚の始め」なのです。

そうならないために、大きな器のある人間は、内実した厚み(天地自然の原理としての道)に身を置き、薄いうわべ(虚飾としての仁や義、礼など)に居ることがないよう余分な力を抜きます。「こういうことから大丈夫たる者は、厚きに身を置いて薄きに居らず、実に身を置いて華に居ない」というわけです。
大丈夫(だいじょうふ)とは大きな人間力を持った人物のこと、また「華」は空虚なうわべのことです。

何事も根本を失うと形式化し、心と体、精神と物質が分離してしまいます。
そうはさせまいと、虚飾、虚礼としての仁義礼智を去り、天地自然の原理である道や上徳に身を置くのが道家の生き方なのです。

原点に帰って性根を据えよ。そのまま素のままでいいから、あるがままの自分をもっと生かせと励ましてくれているところに、本章の真意があると思うところです。(続く)