No.83 美麗な玉と、ごろごろした原石。あなたはどちらを選ぶ?

裸一貫で通用する人間力があって、はじめて肩書きや役職が生きてくる

さて、「一」は根本原理であると同時に、「全体を一つに捉える」ということでもあります。一体観によって、部分に囚われない見方をするのです。貴賤なら貴のみに傾かず、高低なら高だけに偏ることなく、玉石ならば玉ばかりに目を奪われません。

老子は「尊いものは賤しいものでもって根本とし、高いものは低いもので基盤とする」と語りました。尊貴と貧賤、高上なものと低下なものを比べれば、それぞれ前者が好まれるが普通です。ところが老子は、賤しいものや低いものが基本であると教えるのです。

なぜ、そう言えるのでしょうか。その理由は、人の価値というものは地位や身分よりも、それらを超えた本質の方に、より存在するからです。裃(かみしも)を脱いだ一人の人間としての魅力、すなわち人間力が、その人の根本であり基盤であるのです。地位や身分を否定するのではなく、裸一貫で通用する人間力があって、はじめて肩書きや役職が生きてくるということを諭したのです。

人間力とは、いわゆる人間性のことであり、品格や徳力と言い換えてもいいものです。そのベースとなっているのが、素志や理想、正義感、慈悲心といった、その人の中心軸にあたる「心の資質」です。それらに、老子の言う樸(ぼく)や荒木がつながっています。

皆が恐れる存在であるからこそ、へりくだった姿勢が求められる

君主に対しても、その「心の資質」を問い掛けます。君主の地位を外し、一個の人間として、生(なま)の自分を自覚出来るかどうかを迫るのです。「こういうことから君主は、自らを孤児・寡人・不幸者と呼ぶ。これは賤しいものを根本とするからではないか」と。

孤児はみなしご(孤)、寡人は独り者(寡)です。不幸者ですが、原文は「不穀」で、「穀」には善い、幸い、福禄という意味があります。それらを否定しているのですから、徳力の無い者のことになります。単なる不幸せな者と言うよりは、幸福をつくる力が足りない無力な者という意味になるでしょう。いずれにしても、それぞれ君主の謙虚さを表した言葉になっています。

君主は、多くの臣下に囲まれています。命令を出せば、誰もがそれに従います。皆が恐れる存在であるからこそ、慢心することのない、へりくだった姿勢が求められるのです。徒(いたずら)に権力を振るい、名声を欲しがり、利益を欲張るようでは、人物の程度が知れています。それでは、たちまち名誉を失うことになってしまうでしょう。

明日死ぬという最後の日まで、将来の成長を楽しみに生きていく

この章(第三十九章)は、「美麗な玉のようなものを欲することなく、ごろごろした石のようでいるのだ」という文章で締め括られています。誰もが憧れる綺麗な玉よりも、ごつごつした野性的な石ころがいいのだと。

綺麗な玉は、もうそれ以上磨く必要のない完成品です。見事な輝きの美麗な宝玉なのですが、これから成長していく楽しみはどこにもありません。あとは、キズを心配するばかりです。それよりも、これから伸びていく可能性のある石ころを、老子は尊んだのでした。将来が楽しみな可能性は、まだ磨かれていない原石のほうにあるからです。

では、いつまで原石でいればいいのかというと、結局それは死ぬまでとなります。明日死ぬという最後の日まで、将来の成長を楽しみに生きていく。原石の可能性を秘めたまま人生を終えるのが、老子流の生き方というわけです。(続く)