No.85 真の強さは「弱」にある

勝ったほうも、次には倒される

左手の指と右手の指とで押し合ったら、一体どうなるでしょうか。思い切り力んでいけば、どちらかの指が折れてしまいます。自分の指ですから、実際には痛くなる前に止めてしまいますが、本当に対抗していけば、一方が倒れるときが戦いの終わるときになります。

ところが、いずれか片方が力を抜いて、柔弱に相対すれば如何でしょう。相手が剛強な圧力を掛けてきても、それをサラリと受け流し、何ら痛むことも傷付くこともなく、やり過ごすことが出来ます。それどころか力んだ側が、肩透かしをくらって倒れてしまいます。自分の力で、自分が倒されるのです。

そうした、柔弱さにこそ本当の強さがあるという考えから、老子は「柔弱は、天地自然の原理による作用である」と語りました。天地自然の原理に立てば、無理な力を出すほど消滅が早まり、余分な力を抜くほど継続性が高まるというわけです。

力と力がぶつかり合えば、当たり前ですが強いほうが勝ちます。その勝ったほうも、もっと強い者の出現によって倒されていきます。そういうことを延々と繰り返していたら、単なる頂点の争い合いで終わるだけです。今、自分が一番強いとしても、繁栄に酔いしれ怠惰に流されれば、たちまち力を失って明日は転落する身となるでしょう。

将来が楽しみな人物ほど、老子に学ぶべき

老子は、逆説的な表現を好みました。「弱」という言葉に、本物の強さを言い表しているのです。その真の「強」を、老子は「女」や「水」に譬えました。女性、特に母性の持つ生成化育の強さ。水が持つ、相手に合わせて如何様にも姿を変える柔軟さ、あらゆるものを飲み込み溶かしてしまう包容力、さらに暴れるとなったら何でもなぎ倒してしまう勢い。そこに、老子の言いたかった強さがあります。

生き方においても、「俺が、俺が」という我欲を元に、焦って背伸びばかりしていれば、大抵(たいてい)途中で横転します。「自分がやらねば誰がやる」という意気込みは大切なのですが、そこに独断専行が加わりますと、大きな落とし穴にはまってしまいます。

自分一人ででもやる、という大高慢と共に、私心の薄さや、聞く耳を持った謙虚さなどが指導者には求められます。将来が楽しみな人物ほど、老子に学んで欲しい所以(ゆえん)です。(続く)