No.87 迷いや心配から脱するために「無の思想」がある

治っているという医者の一言で快方へ

あるいは、あらゆる現象は意識の現れであり、一切は仮の存在であるとする無の考え方もあります。有ると思うのは迷いであり、本当は何も存在していない。物に囚われ、形に拘って(こだわって)はならない。目に見えるものの奥にこそ、真実の世界があるという捉え方です。こちらは「絶対の無」と呼ぶべきもので、これも老子の言いたかった「無」であると推察します。

この考え方によって、一旦(いったん)全てを否定し、「一切は無」という認識に立つことにも意味があります。見た目の美醜や、地位・名誉、世間の評判など、表面的な事柄に囚われ過ぎている人に対して、その精神的呪縛を取り去る上で大きな効用があるでしょう。迷いを払い、意識の手枷(てかせ)・足枷(あしかせ)を外すために、一度否定観をくぐるというわけです。

悩みやストレスが病気をつくっているときも、その心的原因の解消に「無の思想」が大いに効果を発揮します。慢性症状の多くは生活病であり、生活病の多くが心に病因を持つとされています。

ある医師から聞いた話ですが、胃潰瘍の“特効薬”は、「良くなっている」とか「治っている」という医者の一言だそうです。胃に穴が開くほどの重症ならばともかく、軽度なら言葉で快方に向かってしまうとのこと。

逆に、診断を受けて病名が付くと、そこから自覚症状が重くなることもあります。胃下垂と診断されたときから、胃がもたれ始めるようなものです。

有るものは有る、それを無いと言うのは強弁

我々は人間社会の中で、本当は価値の無いものを過大視したり、存在しないものを有ると思いこんだりして生きています。迷いや気にし過ぎで、日々を暮らしているのです。そういう心配過剰の状態から脱するために、無の思想があるというわけです。

しかし、いくら主観的に無いと否定しても、そこに存在しているものは客観的に認めざるを得ません。現実に有るものは有るのであって、それを無いというのは強弁に他なりません。

「有ると思う人には有り、無いと思う人には無い」といっても、真実存在しているのであれば、それを認めないのは単なる独りよがりに過ぎないことになります。「自分はこの花を綺麗だと認めないのだから、花は無いのだ」と主張しても、端から見て確かに花がある以上、有るものは有るのです。

老子の思想は宗教に近い

全体観である「綜學」は、「主観」と「客観」はもとより、現象を表から見る「表観」と内から観る「裏観」を駆使し、綜体から物事の真実を捉えてまいります。主観・客観・表観・裏観で「四観」となり、これらによって『老子』を味わいますと、思想の全体像を立体的に捉えることが可能となるのです。

花を見て綺麗と感じるのが主観、その花の詳細を調べるのが客観。他の花との違いを表から見るのが表観、表面に囚われることなく花の価値を平等に観るのが裏観です。

主観が無ければ感性が生ぜず、客観が無ければ理性が育まれません。表観が無ければ個性や資質を見抜けず、裏観が無ければ奥に潜んでいる素晴らしさを掴(つか)めません。

老子の思想は、哲学や倫理であるよりも、宗教に近い内容を持っています。宗教は一般的に、主観と裏観を強く働かせる傾向がありますが、老子も例外ではありません。「無いと思えば無い」という主観の世界を、平等観(裏観)によって構築しているのです。

無の思想の「無」は、「方便の無」であるとも言えましょう。「方便」とは便宜的な仮の手段のことですが、現象世界の囚われや拘りから離れたほうがいい人たちにとって、「無の思想」は精神の浄化に大いに有効なはずです。

ともかく有と無は、哲学上の大命題です。頭の体操にお付き合いを頂き、どうも有り難うございます。(続く)