No.91 方向が明確であるほど、再生力が旺盛に働く

思わぬ災難や苦労が、誰の人生でも起こり得る

次に「平らな道は、凹凸(でこぼこ)しているかのようだ」という一文についてです。平らな道とは、綺麗に舗装された滑(なめ)らかな道のことであり、それが凸凹しているというのは全く変な話です。

一つの解釈として、細かく見れば実際は凹凸(おうとつ)だらけという意味があるでしょう。きめ細かな肌も、顕微鏡で拡大して見れば、誰でも凸凹(でこぼこ)しているようなものです。

あるいは、「平ら」というのは、単に高低差が見られないという物理的な意味ではなく、平安や平静といった、精神的な意味を表している言葉だという解釈も成り立ちます。

どの人の人生にも、好調なときがあれば不調のこともあり、振り返って見れば起伏の連続です。その山あり谷ありの変化に、どう対応するかです。状況によっては、無理矢理突き抜けるという方法もあるでしょうが、通常は自然の上り下りに従うのが一番の近道になると思います。

そして、落とし穴であるかのように、ときに遭遇するのが何らかの出来事や事件です。自分こと、家族のこと、仲間のことなどに、思わぬ災難や苦労が、誰の人生でも起こり得ます。

「支援の手」は、「立ち上がる意欲のある人」に差し伸べられる

人は酷い災難に襲われたとき、誰かに当たり、文句を言いたくなります。天を怨み、神も仏もあるものかと嘆き悲しみます。そういうときに「汝の運命を肯定し受け入れよ」という言葉くらい、非情なものはありません。

しかし、災難に対して嘆き、文句ばかり言っているようでは、助け手はなかなか現れないものです。応急手当をして貰える段階を超えますと、「支援の手」というものは、「立ち上がる意欲のある人」に、より多く差し伸べられるようになります。

「当事者の気持ちになって見ろ」と叱られるかも知れませんが、どれほど苦しくても、進むべき道を見失わないで歩んで行く以外に人生は無いのではないでしょうか。死んでしまったなら、何も出来ないのだから仕方ありませんが、生きている以上、何かやるべきことがあるはずです。「自分に出来る役割」によって、誰かのため、何かのために役立ち、必要とされ、「人に喜ばれることが自分の喜びとなる」人生です。

「こけたら、立たなあかん」

昭和9年の室戸台風で、移転したばかりの松下の工場が倒壊し、甚大な被害を被ったことがありました。現場に来た松下幸之助は、「いや、かめへん、かめへん。こけたら立たなあかんねん」とだけ言って引き返したことがあったそうです。トップとして、断腸の思いでいるはずなのに、よくぞ平静を装えたものだと感服します。

松下翁のように素早く気持ちを切り替えるのは、誰にでも出来ることではないでしょう。でも、どこかで転換を図らねば、そのまま終わってしまいます。

苦しい中にあっても益々勇気を燃やせる人、そういう人は、一体何が違うのでしょうか。それは、やはり「志」を持っているということだと思います。「心が指し示す方向」が志です。何でもって、どの方向に進むのか。それが明確であるほど、再生力が旺盛に働くわけです。

そうして人生が一筋に続く道となれば、実際には随分凸凹していたにも関わらず、まるで何事も無い平坦な道を歩んできた人であるかのように見えてしまうということを、老子は言いたかったのでしょう。(続く)