No.92 山の威厳と、谷の器量を併せ持て

儒家の「後天の徳」、道家の「先天の徳」

「徳」は、儒家(孔子など)と道家(老子など)が、同じくらい好んで使う言葉です。儒家が「徳」と言う場合、自己啓発によって磨かれた「後天の徳」を指す場合が多いのに対し、道家では持って生まれた「先天の徳」を意味するのが普通です。教化の努力を重んずるのが孔子であり、本来備わっている荒木(樸)の魅力を損ねないよう教えているのが老子なのですから、その違いは当然のことです。

しかし、両者が全く平行線の関係にあるかというと、決してそうではありません。先天の徳を生かしてこそ後天の徳となるのであり、後天の努力が無ければ先天の徳は宝の持ち腐れとなります。先天の徳と後天の徳が一体となって、その人の「徳」となる以上、相容れない別個のものになるわけがありません。

そもそも、「徳」に関する儒家と道家の対立は、先天・後天の、どちらに重きを置くかという視点の違いに根があるに過ぎないのです。

儒家は融通が利かない、道家は放縦になり過ぎる

儒家の性格として、何かにつけ型に填(は)めようとしがちなところがあります。堅苦しくて融通が利かなくなり、せっかくの素質や個性を殺してしまう弊害が見られます。それでは、先天の徳が損なわれて勿体(もったい)ないだろうというのが、道家の主張するところでした。

反対に道家は、教育を不要とするほど放任化の傾向があり、世間の常識から逸脱し、怠惰・放縦になり過ぎる欠点を有しています。世のため人のために志を立てて生きようする人に対しては、ご大層なことだと嘲(あざけ)り笑ったりもします。

その結果、ただいい加減に生きているだけの中味のない人生に陥りかねず、儒家が道家の徒に対して眉をひそめる所以がそこにあるのです。

なお、「徳」は人間力と言い換えてもいい言葉です。その人に備わった「内から発する風格」であり、相手を感化させていく人間的魅力です。筆者は、「山の威厳」を重視する儒家と「谷の器量」を尊ぶ道家の、両者が融合したところに東洋的人物の基本があると考えています。

そのことを前提に「最上の徳は、谷であるかのようだ」という言葉を味わいますと、老子の本意が一層分かってくるものと思われます。堂々とした山の貫禄を「徳」と受け止めるのが一般的な儒家の解釈ですが、そこに老子流の謙(へりくだ)った「谷の懐」の意味を加えますと、一層「徳」の意味が深く掴めてくるというわけです。(続く)