No.93 清濁を併せ呑む

最高の白は、黒く汚れている…

老子の謎かけが、さらに続きます。「最高の白は、黒く汚れているかのようだ」と。「最高の白」とは、本物の白のことです。何事も本物になればなるほど、人工的な白さから離れ、自然な白色になってまいります。

天然の産物であれば、何らかの混ざり物が含まれていますから、真っ白ということはありません。その純白でないということを、不純物の混入だなどと言ったら、自然に対して甚だ失礼な物言いでしょう。

そもそも、一つの成分だけで完成している物なんて、自然界には存在しません。あらゆる存在が、多くの元素で組成されております。いろいろ混ざり合っているから、「黒く汚れているかのよう」に見えることになるわけです。

食べ物で言えば、米も塩も砂糖も、本来の色は真っ白ではありません。玄米は薄い黄土色、自然塩は淡い灰色、黒砂糖は焦げ茶に近い黒色を帯びています。それが自然の色なのです。

それらの純度を高め、自然から離せば純白に近づきます。でも健康にいいのは、汚れて見える玄米・自然塩・黒砂糖のほうです。

食べ物だけではありません。何であれ本物ほど、素人目にはつまらない物に見えたりします。そういうことから老子は、「最高の白」という言い方で、本物の価値を覚らせようとしたのでしょう。

純白に過ぎると器量が小さくなる

人間は、純白に過ぎると器量が小さくなります。悪を認めているわけではないので誤解なく受け止めて欲しいのですが、人間は誰もが不完全な存在です。いい意味で清濁併せ呑むところがないと、堅苦しい雰囲気になって誰も付いて来なくなってしまいます。その者自身、善人だが魅力も面白味も無いという小物に萎縮してしまうことになります。

勿論「清濁併せ呑む」とは言っても、どの辺りの「濁」まで容認していいのかを判断するのは、決して容易なことではありません。同じ事であっても、人によって許されるかと思えば非難されてしまうこともあり、実際はいろいろです。

要は、清濁の併せ飲み方がその人らしいかどうか、交友であれば、その広さが似合っているかどうかが肝腎となります。すなわち、幅広く人を集められる魅力なり、心の深いところでつながり合うことの出来る徳(人間力)があるかどうかが、重要なポイントになると言えるでしょう。(続く)