No.94 大きいと有り難さが分からなくなる

不足や不満ばかりが口から出てくる

「広大な徳は、不十分であるかのようだ」。これは、広大過ぎると有り難さが分からなくなり、却って欠けているかのように見えてしまうという意味でしょう。

宇宙の徳である時空の広がりに全然気付かないとか、天地(あめつち)の徳である大気と大地の有り難さを普段は全く意識しないとか、親の徳(お陰)の大きさに子供の内は全く感じないなどというのが例です。

何事も広大になると、なかなかそれを「我が事」と受け止めることが出来難くなります。組織も大きくなればなるほど、そこに属していられることの有り難さが分からなくなり、不足や不満に思うことばかりが口から出てくるものです。

変化に対して、如何様にも対応可能

その次は、「真っ直ぐ立てた徳は、かりそめであるかのようだ」という言葉です。「真っ直ぐ立てた徳」というのは「素直に立てられた徳」、「かりそめ」は「柔軟な様子」を表しています。

「かりそめ」には「すぐに終わってしまうような儚いこと」や「その場限りの間に合わせ」といった意味があるのですが、ここでは軽くてどうでもいいという意味ではありません。拘り(こだわり)や囚われのない、真の意味で自由で、融通無碍(ゆうずうむげ)な状態を表しております。融通無碍とは、変化に対して如何様にも対応可能で、障碍の無い柔軟な様子です。

そういう人は、自我を頑固に振りかざすことがありません。淡々としていられるので、傍目にはクールで、いい加減な性格に映ることもあるでしょう。しかし、本当の粘り(ねばり)強さを持っているのです。

質朴で純正な物ほど、不安定に見える

それから「質実真正なものは、変化しやすいものであるかのようだ」という言葉ですが、これは質朴で純正な物ほど、不安定に見えるということを言おうとしています。

多くの食品は、産地や季節によって色や味が微妙に違います。それをそのまま「質実純正」に出せば、その都度違った味わいになります。それで「変化しやすいもの」に見えてしまうのです。

また、「質実真正」の原文は「質真」です。「質真」は、飾り気のないそのままを意味します。素朴で自然ですから、人工的な派手さや、作られた華麗さがありません。その分、色あせて見え、変化してしまった物のように受け止められもします。でも、変わらぬ奥深い輝きや、淡い美しさが備わっております。(続く)