No.99 言葉に振り回されてはいけない

名前が付くと部分になってしまう

宇宙は大きな象だから形が無い、ということを話しました。その宇宙を成り立たせている根本原理が「道」です。道は、普通の感覚で捉えられるレベルを超えた存在であり、それ自体、目には見えません。老子は、そういう様子を「道は隠れていて、言葉で言い表せない」と表現しました。

言葉には、物事を定義付けする働きがあります。言葉、すなわち名前が付くことによって物事の意味が明確になります。ところが一方で、言葉によって限定化されもします。あれはあれ、これはこれとなって、分析は進むものの、そこに分離観が起こるのです。

融通の利かない人であれば、紙に「コピー用紙」という名称が付くことで、使用がコピーに限定されるという分離化が発生します。同じ紙なのだからメモ用紙に使おうが、包み紙に用いようが一向に構わないはずなのに、コピー以外に使ってはならないという固定化が生ずるというわけです。

名前が付いていなければ荒木(樸)のままでいられるのに、一度名称が付くと部分になってしまう。そこに「言葉という道具」の問題点があるのです。言葉は生かすものであって、それによって振り回されるものではありません。言葉を多く知っている割には、個々バラバラの知識ばかりで、見方がてんで狭いということにならないよう注意しなければなりません。

皇室に名字が無いのはなぜか

天地自然はもとより、大宇宙を成立させている根本原理が道です。宇宙全体に及ぶ最高の根源が道である以上、道に対して安易に名付けることは出来ません。それで、言葉では言い表せなかったというわけです。

全体を支えるものに名前を付けないということは、我が国の皇室の例にも見られます。皇室には名字(姓)が無いのです。日本全体の総本家が皇室なのですから、姓を名乗る必要がなかったです。もし名字が付いたら、沢山ある家の一つになってしまいますが、姓が無いことで全体を支える「扇の要」になっているという次第です。

そうして道は、天地自然に対して分け隔てなく恵みを与え、それぞれが全うされるよう(原理として)支えてくれています。本章を締め括る「道は、よく施し、しかも成し遂げる」という言葉が、道の“有り難さ”をよく示しています。(続く)