No.111 余分な事をしないほうが、却って有益となる

敢えてそっとしておき、自力の発揮を待つ

「無為」という、『老子』における重要なキーワードが本章にも出てきました。「そういうこと(水が素晴らしい働きを持っているということ)から私は、無為が有益であることを知るのだ」と。

無為とは、文字通り何も為さないことであり、意図的に無理して行おうとしない様子です。

水は、固定された形を持っていません。相手が円形なら円形に、方形なら方形に従います。常に高いところから低いところへ向かい、自然に逆らうことがありません。そういう囚われのない姿勢を無為というのであり、まさに水は無為の象徴と言えます。

しかし、何も為さないといっても、諦めや怠けとは違います。人や物が持っている「内なる力」を生かすため、敢(あ)えてそっとしておき、自力の発揮を待つところに無為の意味があるのです。

幼い子供は、よく転びます。何度も転びながら、怪我をしないコツを身に付けてまいります。ところが、転ばないよう大人が手を差し伸べてばかりいると、転び方を身に付けられないまま成長してしまいます。

また、転ぶ度に抱き上げていると、自分で立とうとしなくなってしまいます。転んだら誰かが助けてくれるのが当たり前、という依存心が生じてしまうからです。

立ち直れる力が残っている内は、自立力を補助せよ

生命体には、自然治癒力というものがあります。怪我や病気に対して治ろう、治そうという力です。それを上手く生かせば根本治療になるのですが、薬などで単に症状を抑えているだけだと、やがて慢性症状に移行していきます。

統合医療(東洋医学+西洋医学)では、痛みや熱などの症状自体に、自然治癒力の発現があると見ています。痛みは体が発する警告であり、熱は治るための反応であるという見方です。

政治における救済も、緊急援助が必要な場合を除けば、自助能力の回復支援を基本とするべきでしょう。自分で立ち直れる力が残っている内は、自立力を生かせるよう補助するのが政治家の心得となります。

こうして、本人自身が持っている力を生かすところに無為の意義があるのです。人間は、もっと自然の力に学ばなければいけません。自然は何も語りませんが、いろいろ大切なことを教えてくれています。それが「不言の教え」です。

そして「無為の有益さ」に気付きましょう。余分な事はしないほうが、却って有益であるという場合が、身の回りにも随分多くあるものです。自然に学ぶことと、無為を尊ぶこと。そこに行き詰まった世の中を救うカギがあり、「天下に、これらに及ぶものは希である」と老子は断言しました。(続く)