No.112 名誉や財貨を得たところで、生命を失ったのでは何にもならない

道家の「処世の心得」

名誉や財貨など、名利に執着しないこと。そして、足るを知り止(とど)まることを知れば、危険はなく長く安泰でいられる。そういう道家の「処世の心得」を説明しているのが第四十四章です。

《老子・第四十四章》
「名誉と身体では、どちらが切実か。身体と財貨では、どちらが重要か。(名誉や財貨を)得るのと(身体を)失うのとでは、どちらが苦痛だろうか。

だから、甚だ(名誉に)執着すれば、必ず大いに(身体を)失うことになり、多く(財貨を)貯め込めば、必ず大きく損することになる。

足るを知れば恥を受けることがないし、止(とど)まることを知れば危険なことはない。それでもって長く安泰でいられるのだ。」

※原文のキーワード
名誉…「名」、と…「与」、身体…「身」、どちらが…「孰」、切実…「親」、財貨…「貨」、重要…「多」、苦痛…「病」、だから…「是故」、執着…「愛」、失う…「費」、貯め込む…「蔵」、大きく…「厚」、損する…「亡」、恥…「辱」、危険…「殆」、長く安泰…「長久」、いられる…「可」

名誉や名声は、一過性で終わる表面的なもの

儒家は「山の思想」ですから、威風堂々とした見た目を重んじます。対する道家は「谷の思想」ですから、本質的な中身を重んじることになります。

儒家が尊ぶ「見た目」の中には、地位や肩書き、名誉や名声などが含まれます。往々にして儒家の徒は、これらを手に入れるため汲々(きゅうきゅう)として生きることになります。世間の評価や他人の評判を、強く気にする人生に陥ってしまうのです。気が付くと、すっかり主体性を失っている自分が、そこにいることになります。

この「見た目」を重視する見方を「表観」といい、これに偏ることを筆者は「表観病」と呼んでいます。内面的な人格や、情に厚い人柄などには関心なし。有名であるかどうか、地位や学歴があるかどうかのみで、相手を判断する状態です。

それに対して老子は、「裏観」で深く見るよう促します。そもそも名誉や名声などというものは、狭い社会の中だけで通用し、しかも一過性で終わるような表面的なものではないか。それらと己の本体であるこの身体とでは、一体どちらが身近で大切なのかを、よくよく考えてみなさいと。

また、かけがえのない自分の体と、失うときにはたちまち消えて無くなるような財貨とでは、果たしていずれに真の価値があるのだろうかと問い掛けてきます。あくせくしながら結果や手段に過ぎない名誉や財貨を手に入れたところで、この生命を失ったのでは何にもなるまいというわけです(続く)