中国・明代の思想家である王陽明は、知ることと行うことは一つであるという、知行合一の行動哲学を唱えました。知ったことは行って初めて完成し、行うことは知ることがもとになっていると。また、知ったからには、それ(お知らせ)を自分へのメッセージ(我が事)として行うべきであり、行うからには、ちゃんと事実や情勢を知らなければ浮足立ってしまうことになります。
行うというのは、ヨガにおいては「行」となります。行の大切さを、沖正弘導師は次のように述べています。
中国・明代の思想家である王陽明は、知ることと行うことは一つであるという、知行合一の行動哲学を唱えました。知ったことは行って初めて完成し、行うことは知ることがもとになっていると。また、知ったからには、それ(お知らせ)を自分へのメッセージ(我が事)として行うべきであり、行うからには、ちゃんと事実や情勢を知らなければ浮足立ってしまうことになります。
行うというのは、ヨガにおいては「行」となります。行の大切さを、沖正弘導師は次のように述べています。
こんばんは。皆さん、お元氣ですか?
明日は東京綜學院で「霊魂観(ミタマ)」について講義します。
◆好きな人とだけ一緒にいられるほど、世の中甘くはない。
立場が上がるほど、嫌いな人とも仲良くやらねばならなくなる。
合う人とだけこじんまりやるか、嫌いな人とも協力して広げていくか。
目標に応じて、自分で決めたらいいと思う。
沖正弘導師は語ります。誰もが正しさを求めるが、そもそも正しさとはどういう状態なのか。
「正しくありたいという願いをもたない人は、おそらくいないことと思います。しかし「正しく」という状態が、わかりにくいのです。正しさとは、どういう状態でしょうか。」
(1974沖正弘『ヨガ叢書第一巻 ヨガに生きる』霞が関書房p.24.)。
こんにちは。線状降水帯発生により、東海道・山陽新幹線がストップ。
移動中の皆さん、本当にお疲れ様です。
◆日記(9月5日~8日)
・5日(土)浜松事務所で明日の講義&指導の準備、デスクワーク
・6日(日)京都綜學院で講義~陽明学と佐藤一斎『言志録』、中短期計画の説明
・7日(月)綜學社京都研修所神棚の清掃と御供物交換、玄関周り掃除。会議
・8日(火)浜松事務所で文明構想会議オンライン参加~琉球史・台湾史など
松下幸之助塾長の、経営におけるエピソードを一つご紹介します。
(ここから)
ある社員が幸之助に呼ばれた。
「今月の売上げはなんぼやった」
社員が答えると、幸之助は、
「そうか、そのうち何がなんぼ売れたんや」
「いちばんよう売れたんは何や」
と、重ねて質問した。
こんばんは。世界の気候が混乱する中、台風も迷走していますね。
◆週刊誌記事等に見られる表現方法に、印象操作があります。印象操作は事実をもとにしている場合でも、その一部を切り貼りすることによって、意図する方向に相手の意識を誘導いたします。事実無根の捏造とは違うものの、実は巧みな表現によって本質を歪めていくところに大きな問題があります。
自分がこの世に生まれ、こうして生きているのは、宇宙のために必要だからである。私たちは神、即ち大宇宙の生命原理に従って、そのお役に立てるような人間にならなければいけないと沖正弘導師は説かれました(1974沖正弘『ヨガ叢書第一巻 ヨガに生きる』霞が関書房pp.21-22.)。
生成発展、それによる進化と調和こそ、宇宙の原理でしょう。それを生かし、先頭に立って「宇宙の期待」に応えるのが人間の役割なのです。
こんばんは。本日は「関東大震災記念日」(大正12年9月1日発生)でした。
◆今日、実家に帰ったら、95歳になったばかりの父が憤慨して言いました。
「おい、世界の政治がおかしいぞ。このままだと人類は本当に終わってしまう。
どうして仲良くやれないのだ。自分と自国のことしか眼中にないではないか」。
つくづく、どうして人間は仲良くやれないのかと思います…
林英臣が講義する講演会・勉強会です。お気軽にご参加いただけますので、是非ともお運びを!関東→中部→関西→中国→四国→九州の順になっております。なお、隔月開催などの会は、10月以降の案内になっている場合がありますのでご注意ください。
また、開催日時・場所・内容が、予告なく変更される場合があるほか、天候や交通の事情によってオンライン開催となる可能性もあります。
念のため問い合せ先にご確認の上、ご参加ください。
☆印は連続の勉強会、★印は単発の講演会です。
組織や団体には、内紛が付き物です。集団内に何らかの対立が起きますと、同じ仲間同士であるにも関わらず、酷ければ非難の応酬合戦となります。そのとき、双方とも自分の側が正しく、相手側が完全に間違っているという態度を取ってしまいます。
そもそも物事というものは、右から見るのか、左から見るのかによって、全く違う景色が見えてきます。積極的な姿勢を見せれば傲慢だと文句を言われ、謙虚にしていれば逃げているなどと非難されてしまうようなものです。同じものを見ているのに、それを見ている者の意識によって、仏にも鬼にも見えてしまうわけです。